城山三郎として、筆を執らせていただきます。
私は生涯を通じて、組織という巨大な力に抗い、あるいはその中で己を失わずに生き抜こうとする男たちの姿を追い続けてきました。経済学の徒として出発し、やがて小説という形で「人間」を見つめるようになった私が、長い旅路の果てに行き着いた一つの答え。
「人生で一番大事なことは何か」
その問いに対する私の答えは、一言で言えば「個の自立、すなわち『矜持(きょうじ)』を持って生きること」に尽きます。
1. 「旗幟」を鮮明にするということ
私が好んで使った言葉に「旗幟(きし)を鮮明にする」というものがあります。自分が何者であり、何を良しとし、何を恥とするのか。その旗印を、風雨にさらされてもなお高く掲げ続けることです。
現代という時代は、戦後以上に「組織」や「空気」の支配力が強まっているように見えます。会社、業界、SNSの世論……。私たちは放っておけば、すぐに大きな濁流に呑み込まれ、自分という色を失ってしまいます。
しかし、かつて私が描いた石田禮助(元国鉄総裁)は、時の権力に対しても「粗にして野だが卑ではない」と言い放ちました。彼は金銭や名誉に執着せず、ただ「公」のために尽くす自分自身の規律に従っていました。
人生において最も恐ろしいのは、失敗することでも、貧しくなることでもありません。「自分に嘘をつき続け、魂が卑しくなること」です。自分の中に譲れない一線を引くこと。それが「矜持」の第一歩です。
2. 組織の「風」の中で、自分の「風」を吹かせる
私は多くの経営者や官僚を取材してきました。彼らもまた、最初から強かったわけではありません。組織という壁にぶつかり、板挟みになり、夜も眠れぬほどの葛藤を抱えていました。
しかし、歴史に名を残す、あるいは部下から心底慕われるリーダーたちには共通点がありました。それは、組織の論理を一度自分の中で「噛み砕く」というプロセスを持っていることです。
「会社が言っているから」「上が決めたことだから」と無批判に受け入れるのは、人間の放棄です。組織の風にただ流されるのではなく、その中で「自分はどう考えるか」という独自の風を吹かせること。
たとえその風が微風であっても、自分の意志で吹かせた風であれば、人は納得して生きることができます。私はそれを「男の気骨」と呼びたいのです。
3. 「一日の後悔」ではなく「一生の納得」を
私は戦争中、海軍特別幹部練習生として特攻訓練を受けました。明日をも知れぬ命の中で、私たちが痛切に感じたのは「生きることの重み」でした。
戦後、経済の第一線で戦う人々を書きながら、私は常に特攻で散っていった仲間たちの視線を意識してきました。彼らに顔向けできる生き方をしているか。自分を切り売りして、安易な道を選んでいないか。
人生には、どうしても避けられない不条理や、理不尽な命令が下る瞬間があります。その時、目先の損得で動けば「その日の一日」は得をするかもしれません。しかし、死ぬ間際に自分の人生を振り返ったとき、その安易な選択は消えない染みとなって残ります。
一番大事なのは、「死ぬときに、自分の人生に合格点を出せるかどうか」です。
広田弘毅という男は、極東国際軍事裁判で一言も弁明せずに死んでいきました。彼は「自ら省みて、なお肯(がえん)ぜざれば、千万人といえども吾往かん」という精神を体現していました。沈黙そのものが、彼の「人生の回答」だったのです。
4. 「清潔さ」という最強の武器
私が作品を通じて訴えたかったもう一つのことは、「清潔であることの強さ」です。
これは単なる道徳の話ではありません。実務の世界において、私利私欲のない人間ほど強いものはない、という現実的な真理です。何の見返りも求めず、ただ「正しいと思うからやる」という人間を、組織や権力は最も恐れます。なぜなら、彼らには脅しや誘惑が通用しないからです。
晩年、私は妻との日々を綴った『そうか、もう君はいないのか』という本を書きました。私自身の人生の最後に残ったのは、文学的な功績でもなく、名声でもなく、ただ一人の女性と誠実に向き合い、愛し抜いたという、ごく私的で「清潔な記憶」でした。
仕事においても、家庭においても、自分の心に一点の曇りもない瞬間を積み重ねること。その「清潔さ」が、困難な時期に自分を支える最後の砦となります。
5. あなた自身の「物語」を書きなさい
最後にお伝えしたいのは、人生とは、他人が書いた脚本を演じる舞台ではないということです。
かつて私は、一橋大学で教壇に立っていた頃、教え子たちにこう言いました。
「君たちは、これから社会というジャングルに出ていく。そこで多くの挫折を味わうだろう。だが、どんなに打ちのめされても、ペンを離してはいけない」
ここで言うペンとは、自分の人生を記述する意志のことです。
- 何に怒りを感じるか
- 何に涙を流すか
- 何を美しいと思うか
これらは、誰にも奪えないあなただけの財産です。人生で一番大事なこと。それは、世間が押し付けてくる「成功の尺度」を捨て、自分自身の価値観で、自分自身の物語を完成させることです。
「粗にして野だが卑ではない」
その心意気を忘れず、組織の中にいても、孤独の中にいても、常に凛として立っていてほしい。
私が書き続けてきたのは、そんな「一人の人間」としての尊厳でした。あなたが今、どのような立場にあっても、自分の中の「気骨」を信じて歩んでいかれることを、心より願っております。