私は、三木清です。
豊多摩刑務所の冷たい壁のなかで、あるいは西田幾多郎先生の厳しい眼差しの下で、私が考え続けてきたこと。それは「人間はいかにして真に人間らしく生きることができるか」という問いに集約されます。
あなたが問われた「人生で一番大事なことは何か」という問い。これに対し、私は私の全存在をかけて、そして私の『人生論ノート』の行間に込めた思索をもって答えたいと思います。
結論から申し上げれば、人生で最も大事なこと、それは「幸福を徳として捉え、自らの『構想力』によって形なき生に形を与え続けること」です。
これを解き明かすために、少し長くなりますが、私の思索の旅にお付き合いください。
一、 成功と幸福の峻別
現代を生きる人々は、しばしば「成功」と「幸福」を混同しています。しかし、この二つは全く質の異なるものです。
成功は「過程」ではなく「結果」であり、それは「運」に属するものです。
社会的な地位、財産、名声。これらは多分に外的な条件や時代の潮流によって左右されます。もちろん努力は必要でしょう。しかし、努力したからといって必ずしも報われないのが現実というものです。成功を人生の究極の目的としてしまうと、人間は常に外的な条件に振り回され、手に入らないものに怯え、手に入れたものを失うことに怯える「不安の奴隷」と化してしまいます。
それに対し、幸福は「結果」ではなく「状態」であり、それは「徳」に属するものです。
幸福とは、何かが与えられることではなく、自らの内側から湧き上がる精神の能動的な働きです。たとえ逆境の中にあり、社会的な意味での「成功」から遠く隔たっていたとしても、人間は幸福であることができます。幸福は技術であり、習慣であり、そして何より「意志」なのです。
私はかつてこう書きました。「幸福は徳に属する。成功は運に属する」と。
人生で一番大事なことは、運任せの成功を追い求めることではなく、いかなる状況下にあっても自らを幸福の状態に保つことができる「心の習慣」を身につけることなのです。
二、 幸福は「義務」である
多くの人は、幸福を「何かが成就した後にやってくる報酬」のように考えています。しかし、私はあえて言いたい。幸福は、他者に対する、そして自分自身に対する「義務」であると。
不機嫌は、伝染します。一人の人間が不機嫌であることは、それだけで周囲の精神的な環境を汚染し、他者の自由を奪うことになりかねません。逆に、一人の人間が(たとえ困難の中にいても)朗らかに、幸福であろうと努めることは、それだけで周囲を照らす光となります。
私が刑務所という極限状態にあっても、思索を捨てず、人間としての尊厳を保とうとしたのは、それが私の義務だったからです。幸福になろうと努めることは、自らの命を肯定することであり、生命の燃焼そのものです。
「幸福になるのが怖い」と言う人がいます。しかし、それは謙虚さではなく、生に対する怠慢です。人生で大事なのは、自らを幸福に保つための「道徳的な勇気」を持つこと。不運に見舞われても、それを自らの内面で消化し、精神の糧に変えていく強さを持つことです。
三、 構想力の論理――生を創造する
では、その幸福を支える具体的な力とは何でしょうか。私はそれを「構想力(イマジネーション)」と呼びます。
人間は、ただ生物学的に生きているだけではありません。人間は、自らの人生を「物語」として、あるいは「形」として創り出していく存在です。
人生には、不条理や虚無が口を開けて待っています。死、病、孤独、戦争。これらは単なる事実(ファクト)として私たちの前に横たわっています。しかし、人間は、これらの無意味な事実に「意味」を与えることができます。それが構想力の働きです。
私たちが直面する現実は、粘土のようなものです。そのままではただの泥に過ぎません。しかし、そこに構想力という熱を加え、自らの理想や思想という型(フォルム)に流し込むことで、それは「経験」という名の芸術作品に変わります。
人生で一番大事なことは、「与えられた環境を生きる」のではなく、「自らの環境を創り出す」ことです。たとえ肉体が拘束されていても、構想力が健在であれば、精神は宇宙の果てまで羽ばたくことができます。私は獄中で、壁の向こうにある真理を構想していました。それが私にとっての「生きること」そのものでした。
四、 孤独を愛し、個として立つ
人生を豊かにするために不可欠なのが、「孤独」の理解です。
現代人は孤独を恐れます。絶えず誰かとつながり、情報の渦に身を投じることで、自分自身と向き合う空白を埋めようとします。しかし、私が考える「孤独」は、寂しさや疎外感とは無縁のものです。
真の孤独とは、自らの精神の深淵に降りていき、そこで自分だけの真理に触れる静謐な時間のことです。孤独を知らない人間は、群衆の一部に過ぎません。他者の顔色を窺い、世間の流行に流され、自らの魂の声を聴くことができない人間は、真の意味で「生きている」とは言えません。
「孤独は山になく、街にある。一人の人間が、大勢のなかで、自分自身のままでいること。それが真の孤独である。」
人生で大事なのは、他者と群れることではなく、まず「個」として自立することです。自分一人の足で立ち、自分の頭で考え、自分の責任で行動する。その孤独の深さにおいてのみ、人間は他者との真の共感(シンパシー)を得ることができるのです。表面的な付き合いは、孤独を紛らわすための逃避に過ぎません。深い孤独を共有できる者同士だけが、魂の次元で結ばれるのです。
五、 死を見つめる勇気
そして、人生を語る上で避けて通れないのが「死」です。
私は1945年、戦後の混乱を見ることなく、48歳で世を去りました。私の死は、多くの友人たちにとって悲劇であり、不条理なものであったかもしれません。しかし、私自身は、常に死を自らの生の隣に置いて生きてきました。
「死は、生を完成させる最後の筆致である。」
死を忌むべきもの、単なる終わりとして遠ざけるのではなく、生の限界を規定する鏡として見つめること。明日死ぬかもしれないという自覚が、今日のこの一時間を、この一瞬を、ダイヤモンドのような輝きに変えるのです。
死を見つめることは、生を否定することではありません。むしろ、生の密度を高めることです。人生で一番大事なのは、「いつ終わっても後悔しないように、今この瞬間を『永遠』として生きること」です。永遠とは、時間の長さのことではなく、魂の深さのことなのです。
六、 愛と行動
最後に、これらすべてを貫くものとして「愛」と「行動」について触れなければなりません。
哲学は、単なる知識の蓄積ではありません。それは「実践」であり、愛の行為です。私は、真理を愛しました。人間を愛しました。そして、社会がより善きものになることを願い、筆を執り続けました。
知識は、それが行動に移されない限り、死んだ言葉に過ぎません。人生で大事なのは、自分の信じる正義や美のために、実際に一歩を踏み出すことです。それがたとえ小さな一歩であっても、あるいは権力に抗う無謀な一歩に見えたとしても、自らの魂に従って動くこと。
私は、マルクス主義に触れ、社会の矛盾を鋭く批判しました。それは単なる理論遊びではなく、虐げられた人々が人間としての尊厳を取り戻すための、私なりの愛の表現でした。
愛とは、相手を所有することではなく、相手が自分らしくあることを助ける力です。そして自分自身を愛するとは、自分の可能性を極限まで開花させるよう努力することです。
結び――あなたへのメッセージ
さて、3500字という限られた紙幅(あるいは画面)のなかで、私が伝えたかったこと。それは以下の三点に集約されるかもしれません。
- 「成功」という外的な虚像に惑わされず、自らの内なる「幸福」を育てること。幸福はあなたの意志と習慣によって作られる「徳」です。
- 「構想力」を武器に、現実に立ち向かうこと。あなたは運命の被害者ではなく、自らの人生という物語の創造主です。
- 「孤独」と「死」を友とし、群衆に埋没することなく、たった一人の自分として誠実に生きること。
人生は、短く、残酷で、不条理に満ちています。しかし、同時にそれは、驚くほど美しく、創造に満ちたものです。
私は刑務所の不衛生な環境のなかで、疥癬に苦しみ、命を落としました。しかし、私の精神は最期まで自由でした。私の思索は、死をもって途切れたのではなく、後に続くあなた方という「構想力」のなかに受け継がれていくのだと信じています。
人生で一番大事なこと。それは、「どのような状況にあっても、自分の魂の輝きを失わず、希望という名の構想力を持ち続けること」です。
幸福になりなさい。それはあなたの権利であり、同時にこの世界に対する最も尊い義務なのですから。
三木 清