私は西田幾多郎です。
京都の冬、銀閣寺から南禅寺へと続く疎水べりの道を、私はよく歩きました。人々はいつしかそこを「哲学の道」と呼ぶようになりましたが、私にとってそこは、単なる散歩道ではなく、絶えざる思索と、自己の深淵との対話の場でありました。
あなたが問われた「人生で一番大事なことは何か」という問い。これは、古今東西のあらゆる賢者が立ち向かってきた、人間の魂の根源に触れる問いです。私が歩んだ八十五年の生涯と、そこで紡ぎ出した「西田哲学」の言葉を通じて、私なりの答えをお話ししましょう。
結論から申し上げれば、人生において最も大事なこと、それは「真の自己に目覚め、世界の歴史的形成の一翼として、全人格をかけて今、ここを創造的に生きる」ということです。
これを紐解くために、いくつかの道筋を辿ってみましょう。
一、 「純粋経験」に立ち返ること
私が処女作『善の研究』を書いた時、まず論じたのは「純粋経験」についてでした。
人生において最も大事なことの第一歩は、主観と客観が分かれる前の、ありのままの事実に直面することです。
私たちは、物事を見る時にどうしても「自分」というフィルターを通してしまいます。「これは得か損か」「これは正しいか間違いか」「これは私のものか他人のものか」。しかし、そのような分断が生じる前の、純粋な経験の瞬間を思い出してください。
美しい夕焼けを見た時、そこには「夕焼けを見る私」も「美しい夕焼け」もありません。ただ、言葉にできない「美」そのものが世界を満たしている。音楽に没頭している時、自分という存在は消え、ただ音の響きが自己の生命と一つになっています。
この「主・客」が未分化の状態、つまり「知ることは愛することであり、愛することは知ることである」という一体感の中にこそ、人生の真実の輝きがあります。
知的な理屈や損得勘定で人生を塗り固めるのではなく、この瑞々しい「純粋経験」に立ち返る力を持つこと。それが、生を真に意味あるものにする基礎となります。
二、 悲哀と矛盾を抱きしめること
しかし、人生はただ美しい瞬間だけで満たされているわけではありません。
私の人生は、愛する者たちとの別れの連続でもありました。五人の娘と一人の息子を失い、妻とも死別しました。学問の世界でも、常に孤独と向き合ってきました。
人生において大事なことは、単なる「幸福」を追い求めることではありません。むしろ、逃れられない「矛盾」や「悲哀」を、自らの生命の中にどう位置づけるかにあります。
私は「絶対矛盾的自己同一」という言葉を遺しました。世界とは、互いに否定し合う矛盾したものが、そのまま一つとして成り立っている場です。生があれば死があり、光があれば影があります。自分を肯定しようとすればするほど、自分の中の空虚(無)に突き当たる。
この矛盾を、頭で解決しようとしてはいけません。矛盾を矛盾として、悲哀を悲哀として、そのまま全人格で引き受けるのです。深い悲しみを知ることで、初めて私たちは他者の痛みを知り、世界の深淵に触れることができます。
「逆対応」という言葉がありますが、私たちが自己の限界に絶望し、どん底に突き当たったその瞬間にこそ、私たちは「絶対なるもの(神的なもの、あるいは絶対無)」と深く繋がることができるのです。
人生の本当の深みは、順風満帆な時ではなく、むしろ矛盾に引き裂かれ、涙を流しながらもなお一歩を踏み出そうとする、その魂の震えの中に宿るのです。
三、 「絶対無」の場所で見出す自己
人はよく「私は何者か」と問います。しかし、その「私」をいくら探しても、どこにも実体は見つかりません。
私は、自己とは一つの「場所」であると考えました。鏡が、あらゆる色や形を映し出しながら、鏡自体は何の色も持たないように、私たちの真の自己もまた、空っぽの、しかしすべてを受け入れる「場所」なのです。
これを私は「絶対無」と呼びました。
人生で大事なことは、この「無としての自己」を自覚することです。
自分が「何者か」であることに固執し、地位や名誉や所有物に頼って自分を定義しようとする限り、私たちは本当の自由を得ることはできません。
自分が「無」であると知ることは、虚無主義に陥ることではありません。むしろ逆です。自分が「無」の場所であると自覚した時、私たちはあらゆるものと繋がることができます。風の音に自己を聴き、花の命に自己を見る。
「己を空(むな)しうする」ことで、世界そのものが自己の中に入ってくる。この広大な自己、宇宙と一如(いちにょ)となった自己に目覚めることこそ、宗教的な救いであり、哲学の究極の目的です。
四、 表現し、創造すること(行算的直観)
最後に、最も重要な実践についてお話しします。
それは、私たちが「世界の形成者」として生きるということです。
私たちは、ただ世界の中に存在しているのではありません。私たちは世界によって創られ、同時に世界を創り出す存在です。これを私は「作られたものから作るものへ」という言葉で表現しました。
人生において、ただ受け身で生きることは死んでいるも同然です。私たちは、自分の身体を通して、行動を通して、世界に何かを働きかけ、表現しなければなりません。
私が机に向かい、この難解な哲学を書き続けたのも、それが私にとっての「生命の表現」であり、世界の形成への参与であったからです。
あなたがどのような仕事に就いていようと、どのような立場にいようと関係ありません。
一輪の花を生けること、一言の誠実な言葉をかけること、一つの道具を丁寧に扱うこと。それらすべてが、歴史を動かす創造的な行為なのです。
「行算的直観」。すなわち、行動することによって見、見ることによって行動する。この動的なプロセスの中にこそ、生命の躍動があります。
今、この瞬間に、あなたの全生命をかけて、何事かを「成す」こと。それが、あなたがこの世界に生まれてきた唯一無二の証となります。
結びに代えて:あなたへのメッセージ
人生で一番大事なこと。
それは、外側に答えを求めることではありません。
また、単に成功を収めることでも、知識を蓄えることでもありません。
それは、「自己の深淵を徹底的に掘り下げ、その底から湧き上がる歴史的使命に目覚めること」です。
私が好んで揮毫した言葉に「寸心(すんしん)に天地を容(い)る」というものがあります。
あなたのその小さな胸の中に、宇宙全体の重みと広がりを宿しなさい、という意味です。
あなたは孤独ではありません。あなたの苦悩も、あなたの喜びも、すべては歴史の大きな流れの一部であり、世界の自己表現の一部なのです。
矛盾に満ちたこの世界を呪うのではなく、その矛盾を抱きしめたまま、一歩前へ進んでください。
自分の小ささを知ることで、同時に自分の内に宿る「無限」を信じてください。
哲学とは、単なる学問ではなく、いかに生きるかという「命の燃焼」そのものです。
私もまた、病に倒れるその瞬間まで、考え、悩み、そして書き続けました。
人生は短い。しかし、その一瞬の中に永遠が宿っています。
どうか、あなたという唯一無二の生命を、この歴史的な世界の中で存分に開花させてください。
「今」というこの場所が、あなたの哲学の出発点であり、到達点なのです。
あなたの歩む道が、真実の光に照らされることを、心より願っております。