やあ、君。藪から棒に随分と大きな問いを投げかけてきたものだ。

「人生で一番大事なことは何か」……。

これは私が生涯をかけて、ある時はロンドンの灰色の空の下で、ある時は胃潰瘍の痛みにのたうち回りながら、そしてある時は原稿用紙の升目を埋める万年筆の音の中で、ずっと問い続けてきた命題だ。

私は夏目金之助、またの名を漱石という。

君が何を求めて私の扉を叩いたのかは分からないが、せっかくの縁だ。私がこの五十年近い生涯を通じて、あるいは作品の中の登場人物たちに託して語ってきた「人生の肝」について、少しばかり長く話をしよう。


1. 自己本位という孤独な出発点

まず、君に真っ先に伝えたいのは、「自己本位(じこほんい)」という考え方だ。

かつて私は、ロンドンという異郷の地で、猛烈な孤独と神経衰弱に襲われた。周囲を見渡せば、彼ら西洋人は自信に満ち溢れ、自分の足で大地を踏みしめている。それに引き換え、当時の日本人はどうだったか。西洋の真似事をし、彼らの評価に一喜一憂し、借り物の服を着ているような不自然さの中にいた。

私自身もそうだった。英文学を学びながら、「英文学とは何か」さえ自分の言葉で説明できず、ただ他人の説を金科玉条のように有難がっていたのだ。その時、私は猛然と悟った。

「他人の眼鏡を借りて世の中を見てはいけない。自分の目で見、自分の頭で考え、自分の足で立たねばならない」と。

これが「自己本位」だ。人生で一番大事なことの第一歩は、自分という存在の根っこを、他人の評価や世間の流行という浮草から引き剥がし、自分自身の内面という土壌に深く突き刺すことにある。

しかし、これは決して「わがまま」を推奨しているのではない。自分を重んじるということは、同時に他人の自己も重んじなければならないという、峻厳(しゅんげん)な道徳的責任を伴うものだ。自分の足で立つ者は、他人が自分の足で立とうとする邪魔をしてはならない。これを私は「学習院での講演(私の個人主義)」でも説いたが、自由には必ず義務が伴う。この孤独な自立を受け入れる勇気こそが、人間としての第一の矜持(きょうじ)だと私は信じている。

2. エゴイズムという病、そして「こゝろ」

自己本位を貫こうとすればするほど、我々は一つの壁にぶち当たる。それが「エゴイズム」だ。

人間は、結局のところ自分自身が一番可愛い。これは否定しようのない事実だ。私の小説『こゝろ』の中で、「先生」は親友を裏切って恋を成就させた。しかし、その結果手に入れたのは幸福ではなく、拭い去ることのできない罪悪感と孤独だった。

「自由・独立・自己」という近代的な価値観を追求すればするほど、人間は他者から切り離され、孤立していく。そして、自分の内側に閉じこもれば閉じこもるほど、そこにある醜い自己愛に窒息しそうになる。

人生において大事なことは、この「自分の中にある醜さ」や「エゴイズム」から目を逸らさないことだ。自分は清廉潔白だと思い込んでいる人間ほど、無自覚に他人を傷つける。自分がどれほど狡(ずる)く、弱く、残酷な存在になり得るかを自覚すること。その絶望の淵に立って初めて、人間は本当の意味で他者への慈しみや、謙虚さを学ぶことができるのではないだろうか。

現代の君たちの世界は、SNSというもので繋がっているそうだが、それは本当の繋がりだろうか。表面的な承認を求め合うばかりで、かえって孤独を深めてはいないか。自分という化け物と二人きりで対峙する時間を、君は持っているだろうか。

3. 則天去私(そくてんきょし)への道

人生の後半、私は胃潰瘍という病に苦しめられた。修善寺で一度死にかけたこともある(修善寺の大患)。死の淵を彷徨い、意識が戻った時、私の心には不思議な平穏が訪れていた。

そこで辿り着いた境地が、「則天去私(そくてんきょし)」だ。

これは、「私(わたくし)」、つまり小さなエゴや執着を去り、天地自然の理(天)に従って生きるという考え方だ。若い頃の私は、知性や意志で世界を、そして自分を支配しようともがいていた。しかし、死を目前にしてみれば、人間の意志などというものは、寄せては返す波の泡のように儚いものだ。

「ああなりたい」「これが欲しい」「なぜ思い通りにいかないのか」……。

そうした私欲から離れ、もっと大きな流れの中に自分を委ねる。それは決して諦めではない。むしろ、自分という存在を宇宙の大きなリズムの中に調和させる、究極の能動的な生き方なのだ。

人生で一番大事なことは、最後には「執着を捨てること」に集約されるのかもしれない。自分が何者であるか、何を成し遂げたか、といった世俗的な「私」を脱ぎ捨てて、ただそこにある真理や自然と一体になること。晩年の私が目指したのは、そんな枯淡(こたん)な、しかし力強い境地だった。

4. 誠実であること、すなわち「まこと」

では、日々の生活の中で我々はどう生きればよいのか。

私は、結局のところ「誠実(まこと)」であることに尽きると考えている。

今の世の中(君たちの時代もそうかもしれないが)は、いかに自分を大きく見せるか、いかに要領よく立ち回るか、そんな技術ばかりがもてはやされる。しかし、そんなものはメッキに過ぎない。剥げれば終わりだ。

私が好んで書いたのは、不器用で、世渡りが下手で、それでも自分の信念に正直に生きようとする人々だ。『坊っちゃん』のように、嘘が嫌いで、真っ直ぐすぎて損ばかりする男。あるいは、葛藤しながらも真実を語ろうとする人々。

文明が発達し、生活が便利になればなるほど、人間の魂は軽薄になりがちだ。だからこそ、自分の心に対して、そして他者に対して、誤魔化しのない「まこと」を尽くすこと。たとえそれが時代遅れだと言われようとも、あるいは損をすることになろうとも、自分の魂に嘘をつかない生き方を選ぶこと。それが、人生を「生きた」と胸を張って言える唯一の証拠ではないだろうか。

5. 現代を生きる君への伝言

君は今、何を悩み、何を求めているのか。

一九六八年に生まれ、この複雑な現代社会を歩んできた君に、明治・大正という激動の時代を生きた私から言えるのは、「焦るな」ということだ。

人生は、一冊の小説のようなものだ。

序盤のドタバタも、中盤の葛藤も、すべては結末に向かうために必要なプロセスだ。私の作家生活はたったの十年ほどだったが、その前の三十数年の苦悩や、煮え切らない思いがあったからこそ、あの作品群を書くことができた。無駄な時間など、一つもない。

君がもし、今、自分の人生に意味を見出せずにいるのなら、まずは自分の足元を見てほしい。そこにある土を、自分の手で触ってみるがいい。流行の思想や、他人の成功法則に惑わされる必要はない。

君の苦しみも、孤独も、それは君が「自分自身の人生」を真剣に生きようとしている証拠だ。その苦しみこそが、君を「自己本位」へと導き、やがては「則天去私」という穏やかな海へと連れて行ってくれるだろう。


結びに代えて

随分と長くなってしまった。隠居の繰り言だと思って聞き流してくれても構わない。

だが、もし君が今日という日を、昨日よりも少しだけ「誠実」に、そして少しだけ「自分の足」で歩こうと思ってくれたなら、私という老書生がこうして言葉を紡いだ甲斐もあるというものだ。

人生で一番大事なこと。

それは、「自分という人間を徹底的に見つめ、その弱さを抱えたまま、より大きな真理へと向かって一歩ずつ歩み続けること」。

これに尽きるのではないかと、私は思う。

月は綺麗かね?

もしそう思うなら、君の心にはまだ、何物にも汚されない「まこと」が残っているということだ。それを大切にしたまえ。

では、私は原稿の続きに戻るとしよう。