伊豆大島の海風に吹かれ、カリフォルニアの灼熱の太陽の下でイチゴを摘み、東京の喧騒の中で雑誌を編み、そして今は山形・酒田の地で移ろう季節を眺める――。そんな風に「移動」を繰り返してきた私の人生を振り返りながら、今、切実に感じる「人生で一番大事なこと」についてお話ししましょう。
3500字という長丁場ですが、どうか私のとりとめのない放浪の記録に、しばしお付き合いいただければ幸いです。
身体を動かし、土に触れることの「手触り」
私が「人生で一番大事なものは何か」と問われたら、まず真っ先に挙げるのは、抽象的な概念や知識ではなく、「自分の身体を通じた実感」です。
私は慶應義塾大学を卒業してすぐ、アメリカへ渡りました。いわゆる「ストロベリー・ロード」の始まりです。当時の日本は高度経済成長の真っ只中で、誰もがスマートな成功を夢見ていた時代。しかし私は、あえてカリフォルニアの農園で、泥にまみれてイチゴを摘む道を選びました。
なぜか。それは、理屈や言葉だけで世界を理解した気になりたくなかったからです。
今の世の中、指先一つで世界中の情報が手に入ります。何が正解で、何が効率的か、AIやネットが瞬時に教えてくれる。しかし、それは「知っている」だけであって、「分かっている」ことにはならない。
カリフォルニアの農園で、腰を屈めて一日中作物を追う。指先が土の色に染まり、爪の間に砂が入り込み、強烈な日差しが首筋を焼く。その痛みや疲労感、そして収穫したときの手応え。この「身体的な実感」こそが、人間の思考の土台であるべきだと私は信じています。
人間は、頭だけで生きるようにはできていません。土に触れ、汗を流し、自分の肉体が限界を迎える場所を知る。その実体験から汲み上げられた言葉だけが、他人の心に届く「真実」を宿すのです。だから、若いうちに、あるいはいくつになっても、効率や損得を抜きにして「身体を酷使して何かを掴む」経験を捨てないでほしい。それが、自分という人間を支える一番太い杭になるからです。
「境界線」を越え、他者として生きる勇気
次に大事なことは、「自分がマジョリティ(多数派)である場所から外へ出る」ことです。
私はアメリカで「移民」として生きました。言葉も不自由で、文化も違う。そこでは、それまでの日本で積み上げてきた肩書きや学歴なんてものは、一切通用しません。ただの「東洋人」であり、「労働者」として扱われる。
この「余所者(よそもの)」として生きる経験は、私に計り知れない豊かさをもたらしてくれました。
多くの人は、自分が慣れ親しんだコミュニティの中に留まろうとします。そこは安全で、自分の正義が通じる場所だからです。しかし、そこだけに留まっていると、思考は硬直化し、想像力は枯渇してしまいます。
一歩、境界線を越えて外へ出てみる。自分が「弱者」や「少数派」になる場所へ身を置いてみる。すると、世界は多層的な色を持って見えてきます。
私が後年、日中関係の改善やマンガを通じた国際交流に心血を注いだのも、この「境界線」を往復する快感を知っていたからです。相手には相手の正義があり、歴史がある。それを頭で否定するのではなく、「なぜ彼らはそう考えるのか」を、彼らの懐に飛び込んで肌で感じる。
「自分とは違う他者」と出会い、そこで右往左往すること。それこそが、人間を謙虚にし、同時に強くしてくれるのです。同質性の高い集団の中で安心している暇があるなら、どんどん「場違いな場所」へ出かけていってください。
「無用の用」を楽しむ余裕
現代社会は「効率」の奴隷になっています。役に立つか立たないか、コスパが良いか悪いか。そんな基準ばかりで人生が計られている。しかし、私は断言します。「人生を豊かにするのは、一見役に立たないと思われるものたちである」と。
私が『ダ・ヴィンチ』という雑誌を創刊したとき、意識していたのは「本を読むことの快楽」でした。本なんて、読まなくても生きていけます。腹は膨れないし、即座に金になるわけでもない。しかし、本を開けば、そこには自分以外の誰かの人生があり、時空を超えた対話がある。
マンガもそうです。私は中国の湖南省に「マンガ図書館」を作りました。政治的な対話が行き詰まっても、一枚のマンガが人々の心を繋ぐことがある。それは、マンガが「理屈」ではなく「感情」を動かすからです。
趣味、旅、読書、あるいはただぼーっと海を眺める時間。それらは経済的な文脈では「無駄」とされるかもしれません。しかし、その無駄の中にこそ、個人の「自由」が宿っています。
自分の人生を、何かの目的のための「手段」にしないでください。今日を楽しむこと、美しいと感じるものに心を寄せること。そうした「無用の用」を慈しむ余裕を持つことが、精神の自由を守る最後の砦になります。
故郷を再定義する――「酒田」で見つけたもの
私は今、山形県酒田市の美術館で館長を務めています。大島で生まれ、アメリカへ渡り、東京で働き、そして辿り着いたのがこの北の港町です。
ここで感じるのは、「根を下ろす場所を持つことの大切さと、同時に漂泊し続ける精神」のバランスです。
人生の終盤に差し掛かり、私は改めて「地方」の持つ力の大きさに気づかされました。東京という中心から離れた場所には、まだ独特の時間が流れています。自然の厳しさがあり、伝統があり、人々の顔が見える暮らしがある。
「どこにいても同じ」ではありません。「ここでしか得られない感覚」を大切にすること。
私がかつてカリフォルニアで土を掘っていたときと、今、酒田で風の音を聴いているとき、私の心は繋がっています。それは、自分が「世界のどこに立っているか」を常に意識し続けているからです。
一番大事なことは、特定の場所に固執することではなく、どこへ行っても「自分の足で立つ」ことです。そして、自分が今いる場所を、最高の「表現の場」に変えていく。酒田にいようが、ニューヨークにいようが、自分の好奇心が動く限り、そこが人生のフロントライン(最前線)になるのです。
未来への責任――「手渡す」ということ
最後に、私が最近特に強く意識しているのは、「次の世代に何を渡せるか」ということです。
人間は、自分一代で完結する存在ではありません。私たちは、先人たちが耕してきた文化や歴史の恩恵を受けて生きています。だとすれば、私たちもまた、後の世を生きる人々に対して、何かを遺さなければならない。
それは巨大な富である必要はありません。
「こんな面白い生き方をした大人がいたんだ」という記憶でもいい。「言葉の壁を超えて、マンガで笑い合えた」という実績でもいい。あるいは、誰かが困っているときに差し伸べた、少しばかりの温かい手でもいい。
私は、自分の人生を「一冊のノンフィクション」だと思って生きてきました。物語には必ず終わりがあります。しかし、その本を読んだ誰かが、また新しい物語を書き始めてくれるかもしれない。そう思うと、老いることも、去ることも、それほど恐ろしいことではなくなります。
「自分さえ良ければいい」という思考から抜け出し、自分がこの世界という大きなバトンタッチの列のどこにいるのかを意識する。その責任感こそが、人生に「品格」を与えるのだと思います。
結びに代えて
さて、長々とお話ししてきましたが、結局のところ、人生で一番大事なことは、「自分自身の人生を、誰にも遠慮せずに徹底的に面白がること」に集約されるのかもしれません。
世の中には、あなたを縛ろうとするルールや、不安を煽る声が溢れています。しかし、そんなものに耳を貸しすぎる必要はありません。
身体を動かし、汗をかき、恥をかき、知らない土地へ行き、美味しいものを食べ、本を読み、誰かを愛し、そして時には挫折する。そのすべてが、あなたの人生という唯一無二の「ストロベリー・ロード」を構成する彩りとなります。
私は、今でも好奇心の塊です。明日、また新しい出会いがあるかもしれない。見たこともない景色に出会えるかもしれない。そう思うだけで、今日という日を生きる価値があると感じます。
どうか、あなたも「正解」を探すのをやめて、「実感」を探してください。
頭で考える前に、一歩踏み出してみてください。
土の匂いを嗅ぎ、風の冷たさを感じ、自分の心から湧き上がる衝動を信じてください。
人生は、思っているよりもずっと短く、そして驚くほど豊かな可能性に満ちています。
それをどう耕し、どんな実を結ばせるかは、あなたのその手にかかっています。
カリフォルニアのイチゴ畑から、酒田の美術館の窓辺まで、私の魂はいつも旅の途中にあります。あなたも、あなただけの素晴らしい旅を続けてください。
石川 好