越前、永平寺の深山より、汝の問いに答えよう。私は道元である。

汝は「人生において一番大事なことは何か」と問うた。この問いは、古今東西、あらゆる人々が抱き続けてきた「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」の核心に触れるものである。多くの者は、何か特別な宝や、遠い未来にある「悟り」という果実を求めて彷徨うが、私の答えは極めて簡潔であり、かつ、汝が今立っているその足元に集約される。

人生において一番大事なこと。それは、「今、この瞬間の行い(行持:ぎょうじ)を、そのまま悟りとして生きる」こと。ただこれだけに尽きるのである。

以下に、私が生涯をかけて見出した、この「真理」の深淵について、順を追って説き明かしていこう。


一、生死(しょうじ)は仏の御命なり

まず、汝に知ってほしいのは、「生」と「死」の捉え方である。

人々は死を忌み嫌い、生を執着すべきものと考える。しかし、私の眼から見れば、生は生の時の一等(いっとう)の姿であり、死は死の時の一等の姿である。冬が春になるのではない。冬は冬として完結しており、春は春として現成(げんじょう)しているのである。

薪(たきぎ)が灰になる。しかし、薪が灰になるのではない。薪には薪の前後があり、灰には灰の前後がある。薪が灰にならないように、生が死になるのではない。生は生として、その瞬間に全生命を燃焼させており、死は死として、その瞬間に宇宙の真理を現している。

ゆえに、人生で最も大事なことの第一は、「生を厭わず、死を願わず、ただ今のこの時を仏の命として受け入れること」である。これを「生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし」と言う。今、この一呼吸、この一歩を、何かの準備としてではなく、それ自体が完成された尊い一刻として生きること。これこそが、迷いから抜け出す第一歩である。

二、只管打坐(しかんたざ):ただ、あるがままに座る

私が宋の国に渡り、如浄(にょじょう)禅師のもとで得た結論は、極めて単純なものであった。それは「打坐(だざ)」、すなわち座禅である。

汝は、何かの利益のために行動していないか? 幸福になるために、成功するために、あるいは悟りを開くために。そのような「目的」を持って行う行為は、すべて「汚れ」を含んでいる。なぜなら、それは「今、ここ」を否定し、別のどこかへ行こうとする執着だからである。

私が説く「只管打坐」とは、「ただ、ひたすらに座る」ということだ。座禅をして仏になるのではない。座っている姿そのものが、仏なのである。これを「修証一等(しゅしょういっとう)」と言う。修行(プロセス)と証(結果・悟り)は分かたれない。

人生において一番大事なことは、「見返りを求めず、そのこと自体になりきること」である。食事をする時は食事になりきり、歩く時は歩くことになりきる。その時、汝の小さな自我は消え去り、宇宙そのものが汝を動かしていることに気づくであろう。これが「身心脱落(しんじんだつらく)」、すなわち心も体も執着から解き放たれた境地である。

三、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、すべてが道場なり

多くの者は、神聖な場所や特別な時間の中にだけ、大事なことがあると勘違いしている。しかし、真理は永平寺の堂内だけに転がっているのではない。

汝が台所で米を研ぐ時、あるいは顔を洗う時、あるいは誰かと言葉を交わす時。その日常の些細な一挙手一投足こそが、仏道そのものである。これを「行住坐臥」と言う。

私は『典座教訓(てんぞきょうくん)』の中で、料理番の心得を説いた。米の一粒、水の一滴を、自分の眼玉のように大切に扱いなさい、と。なぜなら、万物にはすべて仏性が宿っているからだ。

人生において大事なことは、「丁寧(ていねい)に生きること」である。

雑に扱っていい時間など、この世には一秒たりとも存在しない。道具を置く手つき、掃除をする箒(ほうき)の運び、相手の話を聞く眼差し。その一つひとつに真心を込めることが、最高の修行であり、最高の人生の歩み方なのである。

これを支えるのが、三つの心である。

  1. 喜心(きしん): この世に生を受け、この行いができることを喜ぶ心。
  2. 老心(ろうしん): 親が子を想うように、万物に対して慈しみの心を持つこと。
  3. 大心(だいしん): 偏らず、山のようにどっしりと、海のように広く物事を見る心。

この三心を抱いて日々の生活を送ることこそが、人生を最も輝かせる秘訣である。

四、自己を習うとは、自己を忘れることなり

汝は「自分とは何か」と悩むことがあるかもしれない。自分をより良く見せたい、自分を向上させたいと願う。しかし、仏道において「自己を習う」とは、意外なことに「自己を忘れること」に他ならない。

自分、自分という執着(我執)がある限り、汝は真の自由を得ることはできない。自己を忘れるとは、自己を万法(宇宙のあらゆる現象)によって証(あか)されることである。

森を歩けば、汝が森を見るのではない。森の緑が、風の音が、土の匂いが、汝を「私」として成立させてくれているのだ。鳥が空を飛ぶ時、鳥は空を飛び尽くしており、空は鳥を包み尽くしている。どちらが主でどちらが従でもない。

人生において一番大事なことは、「『自分』という狭い檻(おり)から出て、万物と一つになること」である。他人の喜びを自分の喜びとし、他人の悲しみを自分の悲しみとする。自他を分かつ壁を取り払った時、汝の人生は無限の広がりを持つことになる。

五、光陰(こういん)は矢よりも速し

最後に、最も厳しく、かつ慈悲深い事実を伝えよう。

時は、汝が思っている以上に速く過ぎ去る。一瞬の油断も許されないほどに。

「明日やればいい」「後で考えればいい」という思い込みは、生死の闇に迷い込む種となる。露の命は明日をも知れぬものである。今、この瞬間を逃せば、二度と同じ瞬間は訪れない。

人生で一番大事なこと。それは、「この一瞬を、決して疎(おろそ)かにしない」という決意である。

道(みち)を求める心(菩提心)を起こすのに、早すぎることも遅すぎることもない。ただ、「今、ここ」で始めればよいのだ。山の中にいても、街の中にいても、汝が座ればそこが永平寺であり、汝が正しく行えば、そこが仏の国となる。


結び:ただ、今を現成させよ

汝よ、人生の「意味」や「答え」を、言葉や知識の中に探すのはもうやめなさい。言葉をいくら積み上げても、それは指が月を指し示しているに過ぎず、月そのものではない。

一番大事なことは、汝が今、この文章を読み終えた後、どのような心で立ち上がり、どのような手つきで扉を開け、どのような足取りで次の一歩を踏み出すか。その「具体的な行い」の中にしかない。

空を飛ぶ鳥のように、水を泳ぐ魚のように。鳥は空の限界を知らず、魚は水の終わりを問わない。ただ、その時その場所で、自らの命を全うしている。それこそが「現成公案(げんじょうこうあん)」、すなわち宇宙の真理が今ここに現れている姿なのだ。

人生に余計な飾りはいらない。

「ただ、今、ここにある自分を、至心(ししん)に、丁寧に、そして無心に生きること」

これ以上に大事なことなど、この広大な宇宙のどこを探しても、見つかることはないのである。

汝のこれからの日々が、一歩一歩、瑞々(みずみず)しい悟りの歩みとなることを、私はこの深山より切に願っている。

九拝。