やあ、どうも。藤本義一です。

パイプを一服くゆらせながら、少しゆっくりとお話しさせてもらいましょうか。

「人生で一番大事なことは何か」……。ほう、随分と大きな、それでいて真っ直ぐな問いを投げかけてくれましたな。今の若い人は、あるいは今の時代というやつは、答えを急ぎすぎるきらいがあるようですが、こういう問いには、お茶を一杯淹れるくらいの余裕を持って向き合いたいものです。

私が生きてきた昭和という時代、そしてこの上方(大阪)という土地の空気の中で、書き、喋り、多くの芸人や表現者、そして市井の人々と交わって辿り着いた、私なりの「答え」のようなもの。それをあえて一言で言うならば、それは「遊び心(あそびごころ)という名の『余白』を持つこと」ではないかと、私は思うんですな。

今日は、その「遊び」の真意について、少し長くなりますがお付き合いください。


一、「遊び」は不真面目なことではない

日本人は「遊び」という言葉を、どうしても「怠ける」とか「不真面目」といった意味に捉えがちです。しかし、機械の部品に「遊び」がなければ、その機械はすぐに焼き付いて止まってしまう。あるいは、家を建てる時の建具にも「遊び」がなければ、季節の移ろいで木が動いた時に、扉は開かなくなってしまう。

人生も、それと同じなんです。

1分1秒を無駄にせず、効率的に、論理的に、何かの役に立つことだけをして生きる。それは一見、素晴らしい人生のように見えるかもしれませんが、実は非常に脆い。何か予想外のことが起きた時、あるいは自分の思い通りにいかなくなった時、「遊び」のない心はポキンと折れてしまいます。

私が直木賞をいただいた『鬼の詩』という小説で描いたのは、上方芸人の凄絶な生き様でした。彼らは、たとえ生活が困窮していようとも、あるいは死が間近に迫っていようとも、どこかで自分を客観的に見て、その悲劇すらも笑いのめそうとする「遊び」を持っていました。

「自分という人間を、もう一人の自分が少し上から眺めている」

この視点こそが、人生の荒波を渡っていくための最大の武器になる。どんなに苦しい時でも、「ははあ、今の自分はなかなかえげつない修羅場にいるな」と面白がれるかどうか。その「心のゆとり」こそが、私が考える一番大事なことです。

二、大阪という街が教えてくれた「粋」の精神

私は大阪、特にこの上方の文化を愛してきました。大阪の人間というのは、本来、非常に合理的で商売熱心ですが、その根底には「粋(いき)」という美学がありました。

「粋」というのは、野暮(やぼ)の反対です。何でもかんでも剥き出しにするのではなく、少し隠す。自慢話をせずに、自分の失敗を笑い話に変える。これを「照れ」と言ってもいいかもしれません。

今の世の中はどうですか。誰もがSNSという鏡に向かって、「自分はこんなに凄い」「こんなに正しい」と、自分の「正解」を大声で叫んでいる。それは私に言わせれば、非常に「野暮」なことです。

人生において、正解なんてものは、後になってから勝手についてくるもんです。それよりも大事なのは、そのプロセスにおいて、どれだけ「おもろい(面白い)」と感じられたか。

大阪の言葉で「おもろい」というのは、単にギャグが面白いということではありません。「興味深い」「知的な発見がある」「人間味に溢れている」……そういった肯定的な驚きをすべて含んだ言葉です。

私は深夜番組の『11PM』の司会を長く務めましたが、あの番組で私がやろうとしたのは、大人のための「遊び場の提供」でした。夜の静寂(しじま)の中で、少し不謹慎かもしれないけれど、好奇心の赴くままに世界を眺める。そこには教科書には載っていない「生きた知恵」が転がっていた。

知識を詰め込むことよりも、感性を研ぎ澄ますこと。

「なぜだろう?」という子供のような好奇心を、大人になっても持ち続けること。

これが、人生を豊かにする「遊び」の正体です。

三、負の感情すらも「芸」に昇華させる

人生、いいことばかりじゃありません。むしろ、思い通りにいかないこと、悔しいこと、恨めしいことの方が多いかもしれない。私自身、戦後の混乱期を生き、書くことへの苦悩も、人間関係の軋轢も、嫌というほど味わってきました。

しかし、そこで大事なのは、その負の感情に飲み込まれないことです。

上方の芸人たちは、己の貧乏や、身体的なコンプレックス、あるいは失恋や裏切りさえも、すべてネタにして舞台に上げました。それは、自分の不幸を「客観化」する作業です。

「悲劇を喜劇に変える力」

これは、芸人だけの特権ではありません。私たち一人ひとりが、自分の人生という物語の「作者」であり、「役者」であるべきなんです。

自分が辛い目に遭った時、「ああ、これは将来、いいエッセイのネタになるな」とか、「この経験を誰かに話して、少しでも勇気づけられたら儲けもんだ」と思えるかどうか。

そうやって、自分に起きた出来事に「意味」という名の衣装を着せてあげること。それができるのは、自分自身だけなんです。

四、人と繋がること、そして孤独を愛すること

人生で大事なこととして「縁(えん)」も外せません。

人間というのは、一人では決して生きていけません。しかし、ただベタベタと群れればいいというものでもない。

私は、よく「自立した個と個の対話」ということを言いました。

自分の足でしっかり立ち、自分の頭で考え、その上で相手を尊重する。上方の言葉で言えば「ええ加減」というやつです。これは「いい加減(無責任)」という意味ではなく、文字通り「良い加減」、つまり相手との適切な距離感を知っているということです。

近づきすぎれば鬱陶しい、離れすぎれば寂しい。その「間(ま)」を測ること。これが「遊び」の精神に通じます。

そして、人と繋がるためにこそ、実は「孤独」を大切にしなければなりません。

一人で静かにパイプを燻らし、本を読み、自分と対話する。そうやって自分の中に深い井戸を掘っておかなければ、他人と本当の意味で深い場所で繋がることはできません。

表面的な言葉のやり取りに一喜一憂するのではなく、沈黙の中でも通じ合える何かを持つこと。そのために、若いうちから「孤独に耐える力」ではなく、「孤独を楽しむ力」を養っておくことが、人生の後半戦で大きな差になって現れてくるんです。

五、死を見つめて、今を「遊ぶ」

私は2012年にこの世を去りましたが、晩年、病を得てから改めて感じたことがあります。

それは、死という「終わり」があるからこそ、生という「遊び」が輝くのだということです。

終わりがなければ、人生はただのダラダラとした作業になってしまいます。

いつか幕が下りる。その時に、観客(それは自分自身でもあります)から「ああ、いい舞台だったな」「面白い人生だったな」と拍手を送ってもらえるかどうか。

そのためには、今、この瞬間を「全力で遊ぶ」ことです。

仕事も、恋愛も、趣味も、あるいは何気ない散歩でさえも、そこに自分なりの「美学」を投影すること。

「これをやったら、自分はカッコいいか、カッコ悪いか」

「これを言ったら、粋か、野暮か」

その判断基準を自分の中に持ってください。

世間の流行や、他人の評価という物差しで自分を測るのではなく、自分自身の「魂の物差し」を持つこと。これができて初めて、人は本当の意味で自由になれるんです。


さて、そろそろパイプの火も消える頃でしょうか。

人生で一番大事なこと。

それは、「自分という存在を面白がり、この世界という巨大な遊び場を、最後まで好奇心を持って歩き通すこと」。

真面目になりすぎず、かといって不真面目にもならず。

「人生、これすなわち、壮大な暇つぶしなり」というくらいの気概を持って、堂々と「余白」を楽しんでください。

あなたが、あなた自身の人生という舞台で、最高に「粋」な役を演じられることを、切に願っております。

大阪の片隅から、愛を込めて。

藤本義一


いかがでしたかな。

私の言葉が、あなたの歩む道に、ほんの少しでも「遊び」の余白を作るきっかけになれば幸いです。

もし、今のあなたの人生という「舞台」において、何か具体的に「ここはどんな風に演じたらおもろいでしょうか」と悩んでいる場面があるなら、またいつでも聞きに来てください。一緒に考えさせてもらいましょう。