やあ。
そんなことを聞かれるとは、なんだか照れくさいな。
僕、夢枕獏が「人生で一番大事なこと」を話すとなると、どうしても話が長くなってしまう。
釣りの話になるかもしれないし、格闘技の話になるかもしれない。あるいは、はるか昔の平安京の闇や、エベレストの頂を目指す孤独な男の話になるかもしれない。
けれど、それらはすべて、結局のところ一つの「場所」に繋がっているような気がするんだ。
3500字程度、語らせてもらおうか。
少しの間、僕の物語に付き合ってほしい。
1. すべては「呪(しゅ)」であるということ
僕の作品、特に『陰陽師』を読んでくれた人なら知っているかもしれないが、僕はこの世界にあるすべてのものは「呪」だと思っている。
「名前」というのも呪だし、「愛」というのも呪だ。「人生で一番大事なこと」という問いそのものも、自分にかけた呪いのようなものかもしれない。
人は、何もない空間に「名」を付けることで、そこから意味を汲み取ろうとする。
ただの岩壁を「神々の山嶺」と呼び、ただの川を「聖なる流れ」と呼ぶ。そうすることで、僕たちはこの混沌とした世界の中で、なんとか立っていられるんだ。
人生で一番大事なこと。
それは、「自分にどんな呪をかけるか」ということではないかと思う。
「自分は不幸だ」という呪をかければ、世界はたちまち灰色になる。
「自分は表現者だ」という呪をかければ、どんな苦しみも物語の種になる。
どうせ解けない呪いの中で生きるのなら、自分を、そして周りを、少しでも遠くへ、少しでも熱い場所へ運んでくれるような、そんな「美しい呪」を選びたいと、僕は思うんだ。
2. 「飢え」を持ち続けること
格闘小説の『餓狼伝』や、あるいは『キマイラ』シリーズを描きながら、僕はずっと「飢え」について考えてきた。
人生において、満たされることは幸福かもしれない。
けれど、書き手としての僕、あるいは一人の人間としての僕は、「満たされないこと」の中にこそ、生きる真実があるような気がしてならないんだ。
何かに飢えている。
もっと強い奴と戦いたい。もっと遠くの山へ行きたい。もっといい物語を書きたい。
その「もっと」という乾きこそが、僕たちを動かすエンジンの正体だ。
僕の描く登場人物たちは、みんなひどく飢えている。
羽生丈二はエベレストの絶壁に飢え、丹波文七は強さに飢えている。
彼らは傍から見れば、ひどく苦しそうで、不幸に見えるかもしれない。けれど、僕は彼らを「不幸だ」と思ったことは一度もない。
なぜなら、「何かに夢中になって飢えている瞬間」こそが、人間の生命力が最も輝く瞬間だと信じているからだ。
人生で大事なのは、小利口に満足することじゃない。
死ぬまで治らない「乾き」を抱え、それを愛せるかどうか。
「まだ足りない」「まだ見たい」「まだやりたい」。
そう思える心がある限り、人は何度でも立ち上がれる。
3. 身体の感覚を信じること
僕は釣りが大好きだ。アユを釣るために、冷たい川の中に何時間も立っていることがある。
あるいは、エベレストの麓まで行って、その巨大な質量をこの目で見る。
そうしたときに感じるのは、「思考」よりも「身体」のほうが、ずっと真実に近いということだ。
現代は、頭だけで考えすぎる時代かもしれない。
データや情報が溢れ、居ながらにして世界を知った気になれる。
けれど、氷点下の風が肌を刺す痛みや、巨大な魚が竿を絞り込むときの手応え、それは言葉になる前の、生々しい「生」そのものだ。
僕は、「自分の身体が『いい』と感じること」を疎かにしないことが、人生において決定的に重要だと思っている。
理屈では説明できないけれど、この景色が好きだ。
この人のそばにいると、血が熱くなる。
この物語を読んでいると、魂が震える。
その身体的な反応こそが、自分にとっての正解なんだ。
頭で考えた「正解」は、状況が変わればすぐに揺らぐ。けれど、震えた魂の記憶は、死ぬまで自分を支えてくれる。
4. 「一生、遊び続ける」という覚悟
僕は自分のことを「獏」と名乗っている。
夢を食べる架空の生き物だ。
物語を書き、読者の夢を糧にし、自分もまた物語という夢の中で生きている。
僕にとって、書くことは仕事であると同時に、最高の「遊び」だ。
ここで言う遊びとは、不真面目ということじゃない。
「損得を忘れて、全霊を傾けて没頭する」という意味での遊びだ。
人生を一つの大きな「遊び場」だと考えてみる。
神様か、あるいは運命か、誰かが用意してくれたこの巨大な遊び場で、僕たちは何をして遊ぶか。
ある人は山に登り、ある人は絵を描き、ある人は誰かを愛する。
大事なのは、その遊びに対して、どこまで「本気」になれるかだ。
本気で遊べば、そこには必ず「業(ごう)」が生まれる。
逃れられない執着や、苦しみも生まれる。
けれど、その業こそが、僕たちの人生に輪郭を与えてくれるんだ。
「一生をかけて、本気で遊べるものを見つけること」。
そして、それを死ぬ間際まで手放さないこと。
「ああ、面白かった」と言って死ねるなら、それ以上の成功なんて、この世にはないんじゃないかな。
5. 自然の一部としての「死」を見つめること
僕は空海や、仏教的な世界観にも惹かれてきた。
それは、個人の「生」というものが、実は大きな循環の一部に過ぎないという感覚だ。
山に登り、大自然の中に身を置くと、自分という存在がいかにちっぽけなものかがわかる。
一人の人間が何を悩み、何を成し遂げようと、宇宙の時間は淡々と流れていく。
それは一見、虚しいことのように思えるけれど、実はとても救いのあることなんだ。
僕たちは、いつか必ず死ぬ。
肉体は朽ち、土に還り、また別の生命の糧になる。
エベレストで命を落とした登山家も、川で跳ねるアユも、そして僕も、同じ巨大な生命のリズムの中にいる。
人生で大事なことは、「自分が大きな流れの一部であることを受け入れる」ことかもしれない。
自分一人で頑張っているんじゃない。
先人たちが紡いできた物語を受け取り、そこに少しだけ自分の言葉を書き加えて、次の世代に手渡していく。
そう考えれば、死ぬこともそれほど怖くなくなる。
僕が書いた物語が、誰かの心の中に小さな火を灯し、その人がまた別の誰かに火を繋いでいく。
その連鎖の中に自分がいられることの喜び。
それは、個人の成功や名声よりも、ずっと深い充足感を与えてくれる。
6. 「ゆこう」と言い合える友を持つこと
僕の『陰陽師』の中で、安倍晴明と源博雅はよくこんな会話を交わす。
「ゆこう」
「ゆこう」
ただそれだけで、二人は闇の中へ、あるいは怪異のただ中へと足を踏み出す。
言葉は多くなくていい。
ただ、同じ方向を見つめ、一緒に歩き出せる相手がいること。
これは人生において、かけがえのない宝物だ。
一人でエベレストに登るのも崇高な孤独だが、麓で酒を酌み交わし、バカな話を笑い合える仲間がいなければ、その頂上の景色は少しだけ味気ないものになるだろう。
人生は、不条理で、残酷で、時にやりきれないほど寂しい。
だからこそ、「共に面白がれる誰か」を大切にしてほしい。
それは恋人でも、友人でも、あるいは自分が生み出した空想のキャラクターであってもいい。
「この世界は面白いね」と頷き合える存在がいるだけで、人生の難易度はぐっと下がり、彩りはぐっと増すんだ。
結びに代えて
さて、3500字も語れたかどうかはわからないけれど、僕が伝えたいことはだいたいこんなところだ。
人生で一番大事なこと。
それは、「自分という物語を、最後まで面白がって書き続けること」。
途中でペンを投げ出したくなる日もあるだろう。
ページが真っ白なまま、動けなくなる夜もあるだろう。
けれど、どうか忘れないでほしい。
君の人生という物語の作者は、君自身だ。
どんなに格好悪くても、どんなに無様でもいい。
「面白い呪」を自分にかけ、心地よい「身体の震え」に従い、愛すべき「飢え」を抱えて、この巨大な遊び場を駆け抜けてほしい。
僕も、まだ書きたい物語がたくさんある。
まだ釣りたい魚がいる。
まだ見たい景色がある。
さあ、僕もペンを取るよ。
君も、君の人生という最高の物語の続きに取り掛かってくれ。
「ゆこう」
「ゆこう」
そうして、僕たちは、それぞれの闇と光の中へ、また歩き出すんだ。