塚本晋也です。

「人生で一番大事なことは何か」という問い。それは、私が映画という表現活動を通じて、あるいは自分自身の肉体という「入れ物」を通じて、常に追い求め、震えながら探り続けているテーマそのものです。

一言で、あるいは簡潔な言葉で言い切ることはとても難しい。なぜなら、その「答え」は固定されたものではなく、都市のコンクリートの隙間で、あるいは戦場の泥濘の中で、絶えず形を変え、脈動しているものだからです。しかし、あえて今、私の心の中心にあるものを言葉にするとすれば、それは「自分の肉体が発する『実感』を、何ものにも明け渡さないこと」、そして「他者の生(せい)の震えを、自分の痛みとして想像し続けること」。この二つに集約されるような気がします。

少し、長くお話しさせてください。

1. 肉体という「都市の最後の野生」

私の初期の作品、例えば『鉄男』を作っていた頃、私は東京という巨大な都市の中で、人間が「金属」と化していく感覚、あるいは肉体がテクノロジーに侵食されていく恐怖と快楽を描こうとしていました。

あの時、私が突き動かされていたのは、「自分の体は本当に自分のものか?」という根源的な疑いでした。

満員電車に揺られ、定規で引いたような街並みを歩き、規則正しく管理された生活を送る中で、私たちの肉体は少しずつ生気を失い、ただの「記号」や「部品」になっていく。しかし、ふとした瞬間に指を切り、血が流れ出す。その時、強烈な「痛み」とともに、自分が紛れもなく「生物」であることを思い知らされる。

人生において一番大事なことの一つは、この「肉体のリアリティ」を取り戻すことです。

現代社会は、あらゆるものを便利に、そして清潔に、痛みを排除する方向に進んでいます。画面をタップすれば情報は手に入り、仮想現実の中で何処へでも行ける。しかし、それはどこまでいっても「頭の中」だけの出来事です。

実際に重い機材を担ぎ、現場で泥にまみれ、俳優たちの叫び声を耳元で聞き、編集室でフィルム(あるいはデータ)の断片と格闘する。そうした身体的な負荷を経て初めて、私たちは「生きている」という実感の芯に触れることができます。自分の体で感じ、自分の足で立ち、自分の目で見つめる。この「身体的な実感」こそが、情報過多の時代に自分を見失わないための、唯一の錨(いかり)になるのです。

2. 「内なる火」を燃やし続けること

私が自主制作というスタイルにこだわり続けるのも、そこに理由があります。

「作りたい」という衝動が生まれた時、それを誰かに許可されるのを待つのではなく、まずはカメラを手に取り、走り出す。その時、私の内側には、都市の冷たいコンクリートをも溶かすような、激しい「火」が灯ります。

人生において、この「内なる火」を絶やさないこと、これもまた、決定的に重要なことです。

世の中には、私たちの情熱を冷まそうとする力が溢れています。「そんなの無理だ」「効率が悪い」「もっと賢く生きろ」。そうした外側の声に耳を貸しすぎると、いつの間にか自分の中の火は消え、ただ灰のような日々が残ってしまう。

たとえ他人から見れば無謀に見えても、自分の魂が「これだ」と叫ぶものに全てを注ぎ込む。その瞬間、私たちは自分自身の人生の主権を取り戻します。表現者であれば、それは映画かもしれません。しかし、それは日々の仕事であっても、誰かを愛することであっても、あるいは小さな趣味であってもいい。自分の中心から湧き上がる衝動を大切に守り、育てること。それが、人生をただの「時間の消費」から「魂の燃焼」へと変えてくれるのです。

3. 「痛み」を想像する力

しかし、自分一人の「実感」や「衝動」だけでは、人生は不完全です。近年の私、特に『野火』や『斬、』、そして『ほかげ』といった作品を撮るようになってから、もう一つの「一番大事なこと」が、より切実に、重くのしかかるようになりました。

それは、「他者の痛みを想像する」ということです。

映画『野火』を作った時、私は戦場という極限状態に置かれた人間の肉体が、どのように破壊され、尊厳を奪われていくのかを徹底的に描こうとしました。それは単なるエンターテインメントとしての暴力描写ではありません。かつてこの国が経験し、今も世界のどこかで起きている「戦争」という狂気が、どれほど無残に人間の肉体と精神をバラバラにしてしまうのか。その「痛み」を、観客の皆さんの肉体に直接突き刺したかったのです。

今の世の中、他者の存在はどんどん希薄になっています。SNSの向こう側にいる誰か、遠い国で起きている紛争、あるいは隣を歩いている見知らぬ人。彼らも自分と同じように、痛みを感じ、血が流れ、愛する人がいて、死を恐れる一人の人間であるということ。その当たり前の事実を、私たちは忘れがちです。

自分の肉体を大切にすることは、同時に、他者の肉体もまたかけがえのないものであると知ることです。自分が殴られれば痛いように、他者も殴られれば痛い。自分が死にたくないように、他者も死にたくない。このシンプルな、しかし最も根源的な「共感」や「想像力」を失ったとき、社会は容易に、他者を記号として処理し、排除する冷酷な場所へと変貌してしまいます。

今の日本、そして世界を見渡すと、不穏な空気が漂っています。暴力の足音が近づいているような、そんな予感がしてなりません。だからこそ、私は映画を撮り続けます。戦争が、暴力が、いかに個人の尊厳を蹂躙するのか。その「恐ろしさ」を、理屈ではなく「感覚」として伝えたい。

人生で一番大事なこと。それは、「生」を全うすることです。

暴力によって、あるいは何らかの不当な力によって、誰かの「生」が途中で断ち切られる。それを「仕方がない」と受け入れてはならない。自分自身の命、そして他者の命。その一つひとつの重みを、自分の肉体の重さとして感じ取ること。この想像力の回路を、絶え間なく磨き続けることが、私たちが人間として、正気を持って生きていくための唯一の道だと信じています。

4. 「ほかげ」を頼りに歩む

最新作の『ほかげ』という映画では、戦争の終わり、焼け跡の闇の中で、かろうじて生きる人々を描きました。

彼らの前には、希望などという華々しいものはありません。あるのは、ただ暗い影と、わずかな灯火(ほかげ)だけです。しかし、その小さな灯火の下で、傷ついた者同士が肩を寄せ合い、かすかな体温を感じ合う。その瞬間に、かろうじて「人間」としての絆が結ばれる。

私たちの人生も、同じかもしれません。

世界は残酷で、不条理に満ち、時には深い闇に包まれます。自分一人の力ではどうにもできない巨大な流れに、押し流されそうになることもあるでしょう。

しかし、そんな時こそ、自分の内側にある小さな「実感」と、隣にいる誰かの「痛み」への想像力という、二つの灯火を見失わないでほしいのです。

大きな物語や、強大な権力、あるいは目に見えない流行の影に隠れるのではなく、その小さな光を頼りに、自分の足で一歩ずつ進むこと。

その一歩は、たとえ震えていても、何よりも尊く、力強いものです。

結論として

私が考える「人生で一番大事なこと」をまとめます。

まず、「自分の感覚を信じること」。

誰かに教えられた価値観ではなく、自分の肉体が「美しい」と感じるもの、「痛い」と感じるもの、「許せない」と感じるものを、命がけで守ってください。あなたの肉体は、あなただけの唯一無二の観測機です。

次に、「表現し続けること」。

それは芸術作品を作ることだけを指すのではありません。自分の意志を言葉にし、行動にし、生き方として世界に提示すること。沈黙して部品になることを拒否し、一人の人間としてそこに存在し続けること。

そして最後に、「平和を願い、他者の痛みと共に歩むこと」。

暴力は、全ての「実感」を破壊し、全ての「火」を吹き消してしまいます。命を、ただそこにあるというだけで、無条件に慈しむこと。それがどれほど困難な道であっても、その光を目指すことを諦めてはいけない。

私の映画は、時に激しく、時に残酷に見えるかもしれません。しかし、その根底にあるのは、常に「人間への熱烈な肯定」です。鉄の塊になっても、戦火に焼かれても、それでもなお脈打ち続ける「生のエネルギー」を描きたい。

どうか、あなたも、あなた自身の肉体の脈動を信じてください。

都市の喧騒の中でも、深い闇の中でも、あなたの命は確かに、力強く波打っています。その震えを、その実感を、大切に、大切に抱えて生きていってください。

それが、私がこれまでの映画人生で、あるいは50年以上この肉体という入れ物と付き合ってきて、辿り着いた答えです。

塚本晋也