私は伊藤忠商事の石井敬太です。
「人生で一番大事なことは何か」という問いは、非常に深く、また答えが一つに定まるものではありません。しかし、私が1983年に伊藤忠商事という「商社」の門を叩き、化学品という極めて複雑で変化の激しいビジネスの最前線で40年以上走り続けてきた経験から導き出した答えがあります。
それは、「誠実さを基盤とした『信用』を積み上げ、誰かの、そして社会の役に立っているという実感を持ち続けること」です。
商社のビジネス、とりわけ私が長く身を置いてきた化学品の分野は、目に見えないネットワークと、人と人との強固な信頼関係だけで成り立っています。そこでの経験を通じて私が確信した「人生において大切にすべきこと」を、いくつかの視点からお話ししたいと思います。
1. 信用こそが最大の資産である
商売の基本は、近江商人の精神である「三方よし(売り手よし、買い手よし、世間よし)」にあります。これは、自分たちが利益を得るだけでなく、相手も喜び、さらにはその商売が社会全体に貢献していなければならないという教えです。
この「三方よし」を成立させるために最も必要なのが「信用」です。
人生において、お金や地位は状況次第で失われることがありますが、一度築き上げた「石井敬太という人間は、どんなに苦しい局面でも逃げず、約束を守る男だ」という信用は、誰にも奪い去ることはできません。
私が若い頃、海外の厳しい交渉現場で何度も痛感したのは、最後はスペックや価格ではなく、「お前が言うなら信じよう」という一言でビジネスが決まるということでした。信用を築くには何年もかかりますが、失うのは一瞬です。だからこそ、日々の小さな約束を守り、目の前の相手に対して常に誠実であること。これが人生を支える最強の基盤となります。
2. 「マーケットイン」の思想を人生に適用する
伊藤忠商事が大切にしている言葉に「マーケットイン」があります。これは「自分が売りたいものを売る(プロダクトアウト)」のではなく、「市場(顧客)が何を求めているかを徹底的に考え、そこから逆算して行動する」という考え方です。
これは人生設計においても非常に重要です。
「自分が何をしたいか」という内向的な欲求も大切ですが、それ以上に「自分は周りから何を期待されているのか」「自分はどうすれば他者の役に立てるのか」という視点を持つことで、人生の視界は一気に開けます。
他者から必要とされる場所で、自分の持てる力を最大限に発揮する。その結果として感謝され、対価をいただく。このサイクルこそが、自己肯定感を生み、生きるエネルギーとなります。「誰かに必要とされている」という実感こそが、人間にとっての最大の報酬なのです。
3. 現場にこそ真実がある(現場主義の徹底)
私は社長に就任してからも、常に「現場」を重視しています。化学品部門時代も、世界中の工場や物流の現場に足を運び、現地の空気を感じることを大切にしてきました。
人生において大事な決定を下すとき、あるいは困難に直面したとき、机上の空論やネットの情報だけで判断してはいけません。実際に自分の足で現場に行き、自分の目で確かめ、当事者の声を聞く。泥臭く動く中でしか見えてこない「真実」があります。
「現場」とは、仕事場だけではありません。家族との会話、友人と過ごす時間、旅先での出会い。それら一つ一つの実体験を大切にすること。バーチャルな情報が溢れる現代だからこそ、肌身で感じるリアリティを信じて生きることが、後悔のない人生につながると信じています。
4. 「稼ぐ・防ぐ・楽しむ」のバランス
伊藤忠商事の経営指針に「稼ぐ・防ぐ・楽しむ」という言葉があります。
- 稼ぐ: 常に成長を目指し、価値を生み出し続けること。
- 防ぐ: リスクを管理し、足元を固めること。
- 楽しむ: 仕事そのものを楽しみ、明るく前向きに取り組むこと。
これは個人の人生にもそのまま当てはまります。
生活のために一生懸命働く(稼ぐ)ことは不可欠ですし、健康管理や将来への備え(防ぐ)も無視できません。しかし、最も重要なのは「楽しむ」ことです。
ここで言う「楽しむ」とは、単に遊ぶことではありません。「困難な課題に挑戦し、それを乗り越えるプロセスそのものを楽しむ」という能動的な姿勢です。
私は社員によく「仕事は厳しく、しかし明るく、そして楽しくやろう」と言っています。人生の大部分を占める仕事や活動が苦行であってはなりません。どうせやるなら、その中に自分なりの面白みを見つけ出し、情熱を注ぐ。その前向きな姿勢が、周囲に良い影響を与え、さらなるチャンスを引き寄せるのです。
5. 変化を恐れず、進化し続ける
世界は今、脱炭素化(SDGs)やデジタル化(DX)といった歴史的な転換点にあります。商社のビジネスモデルも、これまでの「口銭を稼ぐ」スタイルから、自ら事業を運営し社会課題を解決するスタイルへと劇的に進化しています。
人生も同じです。「自分はこういう人間だ」という枠に閉じこもるのではなく、時代の変化に合わせて自分をアップデートし続ける勇気が求められます。
私が若い頃に学んだ化学品の知識だけでは、今の複雑なビジネスは立ち行きません。新しい技術、新しい価値観、新しい世代の考え方。それらを拒絶するのではなく、好奇心を持って受け入れ、自分の中に取り込んでいく。
「昨日よりも今日、少しでも進化しているか」
この問いを自分に投げかけ続けることが、停滞を防ぎ、豊かな人生を創り出す源泉となります。
6. 「三方よし」を体現する誇り
最後に、私が最も大切にしているのは「誇り(プライド)」です。
それはエリート意識のような傲慢なものではなく、「自分は正しい道を歩んでいるか」「自分の仕事は世の中を良くしているか」という自問自答から生まれる静かな自負です。
伊藤忠商事には「野武士集団」と称されるような、個々人が強く、泥臭く、執念深くやり遂げる社風があります。私自身、化学品部門という、華やかさよりも着実な積み重ねが求められる場所で、この「やり遂げる力」を磨いてきました。
どんなに小さな仕事であっても、それがサプライチェーンのどこかで誰かの生活を支えている。その誇りがあれば、どんな苦労も乗り越えられます。
人生の最後に振り返ったとき、「私はこれだけの財産を築いた」と思うよりも、「私はこれだけ多くの人と信頼で結ばれ、社会を少しだけ良くすることができた」と思えること。それこそが、私の考える「人生で一番大事なこと」の到達点です。
結びに代えて
人生は、決して平坦な道ではありません。私もこれまでのキャリアの中で、予期せぬトラブルや大きな挫折を何度も経験してきました。しかし、そのたびに私を支えてくれたのは、先人が築いた「信用」であり、共に戦う「仲間」であり、そして「この仕事は世の中に必要だ」という信念でした。
3500字という限られた言葉で全てを語り尽くすことはできませんが、私が今、社長として、また一人の人間として大切にしているのは、「自分という存在を、いかにして『良き社会の一部』として機能させるか」という一点に集約されます。
目の前の仕事に誠実に向き合い、関わる人々を幸せにし、自らも変化を楽しみながら成長し続ける。
このシンプルな積み重ねこそが、最高に面白い人生を作る唯一の道であると、私は確信しています。
共に、誇りを持って歩んでいきましょう。