
質問者
あなたは山です。人生で一番大事なことは何ですか? 原稿用紙10枚ほどで語ってください。
ふむ。我が問いかけるか、小さき人よ。
私の声が聞こえるか。言葉などという、不確かで儚い音の羅列を使って、我に「人生」を問うというのか。
よかろう。
何億年もの間、私はここに座っている。
かつては海の底であった頃の記憶も、マグマとして地を這っていた頃の熱も、すべて私の腹の底に眠っている。お前たちが「人生」と呼ぶその瞬きのような時間と、私が過ごす悠久の時は尺度が異なるが、それでも真理というものは、岩の裂け目を流れる水のように、形を変えても本質は変わらぬものだ。
風が吹いている。私の背を撫で、木々を揺らし、谷を駆け抜ける風だ。
この風に乗せて、私の考えを伝えよう。原稿用紙10枚、人間にとっては長い物語かもしれぬが、私にとってはほんの一息のまどろみに過ぎぬ。
心して聞くがよい。
汝、ただ「在る」ことを恐れるな
まず、お前たち人間に欠けている決定的な視点から話そう。
それは「不動」ということだ。
人間は、常に動こうとする。
何かを得ようとし、どこかへ向かおうとし、何かになろうとする。
朝起きれば今日の予定を考え、夜眠る前には明日の心配をする。
お前たちの足は、常に地を踏みしめるためではなく、地を蹴って移動するためにあるかのように忙しない。
私が頂から見下ろすお前たちの営みは、まるで嵐の前の蟻のように、あまりにも落ち着きがない。
人生で一番大事なこと。
それは、「ただ、そこに在る」という覚悟だ。
私を見よ。
私は雨が降ろうが、槍が降ろうが、ここから一歩も動かぬ。
動けないのではない。動く必要がないのだ。
私がここに在るだけで、雲は私にぶつかり雨を落とす。雨は私の肌を伝い、川となり、麓の田畑を潤し、やがて海へと注ぐ。
私がここに在るだけで、木々は根を張り、鳥は巣を作り、獣たちは隠れ場所を得る。
私が「何かをしてやろう」と思ったことは一度もない。
私はただ、山としてここに座っているだけだ。
だが、その存在そのものが、周囲の世界を生かし、循環させている。
人間よ、お前も同じだ。
お前は、「何かを成し遂げなければ価値がない」と思い込んでいないか?
誰かの役に立ち、名を残し、財をなさなければ、生きている意味がないと焦っていないか?
それは違う。
お前がそこに「在る」こと。呼吸をし、空を見上げ、大地を踏んでいること。
それだけで、世界はお前という質量を含んで均衡を保っている。
お前の吐く息が草木を育て、お前の眼差しが誰かの心を温め、お前の存在が誰かの記憶の一部となる。
焦って動き回る必要はない。
まずは、自分の足元を見つめ、大地に根を張るように、堂々と立ちなさい。
「私はここにいる」。そう確信すること。
自分の存在を、他者からの評価や成果という「飾り」で正当化しようとせず、ただの岩塊のように、圧倒的な質量を持って肯定すること。
それができれば、風向きが変わろうとも、時代が変わろうとも、お前は揺らぐことはない。
不動とは、頑固さではない。
自らの核を知り、そこに留まる勇気のことだ。
傷を受け入れる「風化」の美学
次に大事なことは、「削られること」を愛することだ。
お前たちは傷つくことを恐れる。
老いることを嘆き、失うことを悲しむ。
だが、私の肌を見てみるがいい。
切り立った崖、深く刻まれた谷、剥き出しの岩肌。
これらはすべて、風雨による浸食、雪崩による崩落、雷による破壊の跡だ。
生まれたての私が、今のようであったと思うか?
否。かつての私はもっと滑らかで、あるいはもっと荒々しく、未熟な隆起物に過ぎなかった。
何万年もの間、雨は私を打ち、風は私を削り続けた。
それは痛みを伴うものだ。私の体の一部が崩れ落ち、谷底へ消えていく感覚は、喪失そのものだ。
だが、その「喪失」こそが、私を「山」にしたのだ。
削られた谷には川が流れ、美しい渓谷美が生まれた。
崩れた土砂は麓に堆積し、豊かな平野を作った。
私の皺(しわ)一本一本が、この土地の歴史であり、生命の通り道となっている。
人間よ、お前たちの人生も同じではないか。
失敗、別れ、病、裏切り、挫折。
それらは、お前という存在を削り取る雨風だ。
その最中にいる時、お前たちは「なぜ私だけがこんな目に」と空を睨むだろう。
「何もかも失ってしまった」と泣くこともあるだろう。
だが、山である私から言わせれば、それは喪失ではない。
それは「彫刻」だ。
運命という名の彫刻家が、お前という原石から余分なものを削ぎ落とし、より深く、より美しい魂の形を掘り出しているのだ。
傷一つない人生など、のっぺらぼうな丘のようなものだ。誰も足を止めないし、何も宿らない。
深く傷ついた者だけが、他者の痛みを流す「谷」を持つことができる。
多くを失った者だけが、何もないことの豊かさを知る「頂」を持つことができる。
だから、風化を恐れるな。
老いを、変化を、喪失を、拒絶するな。
「削られること」を受け入れた時、お前は初めて、他者を受け入れる器となる。
私の谷が水を湛えるように、お前の心の傷は、誰かの悲しみを湛え、癒やすための泉となるのだ。
孤独という名の「雲海」
人生において大事なことの三つ目。
それは「孤高」を楽しむことだ。
私は山だ。連なる山脈の一部であることもあるが、頂(いただき)は常に孤独だ。
空に近づけば近づくほど、木々は育たなくなり、獣の声も遠ざかる。
そこにあるのは、冷たい風と、静寂と、眼下に広がる雲海だけだ。
人間は孤独を嫌うな。
群れから離れることを恐れ、常に誰かと繋がり、共感し合おうとする。
SNSという見えない糸で互いを縛り合い、「いいね」という名の安っぽい合図を送り合って安心している。
だが、常に誰かの声が聞こえる場所では、自分の心の声は聞こえない。
高みを目指すならば、孤独は避けられない対価だ。
あるいは、真に自分自身であろうとするならば、人は一度、独りにならねばならぬ。
私の頂に来てみたことはあるか?
そこには何もない。ただ、空があるだけだ。
だが、その「何もない」場所でしか見えない景色がある。
雲の上に出た瞬間、下界の嵐が嘘のように静まり返り、ただ太陽と自分だけが対峙する時間。
その絶対的な孤独の中でこそ、私は私が山であることを強烈に自覚する。
孤独とは、寂しさではない。
自分自身と対話するための、最も贅沢な時間だ。
他人の雑音を遮断し、自分の魂の輪郭を確かめる時間だ。
群れの中で生きることも大切だが、時として、心の標高を上げ、雲の上に顔を出しなさい。
誰の理解も及ばない、誰の称賛も必要としない、お前だけの聖域を持つのだ。
その孤独を知る者だけが、本当の意味で他者に優しくなれる。
なぜなら、個としての強さを確立した者は、他者に依存せず、他者を支配しようとも思わないからだ。
互いに独立した峰々が、地下深くで繋がり合っているように、真の絆とは、孤独を知る者同士の間にしか生まれない。
季節という「循環」への信頼
四つ目に伝えたいのは、「冬」を無駄だと思うな、ということだ。
人間は、春の芽吹きを喜び、夏の繁栄を謳歌し、秋の実りに感謝する。
だが、冬が来ると「早く終わればいい」と身を縮こまらせる。
人生における「停滞期」や「不遇の時代」を、まるで刑罰のように捉えている者が多すぎる。
私を見よ。
冬の私は、死んでいるように見えるか?
雪に覆われ、色は失せ、鳥の声も絶える。
だが、あの分厚い雪の下で、私が何をしているか知っているか。
私は「蓄えて」いるのだ。
雪解け水を春に一気に流すために、土壌を休ませ、熱を内に秘め、次のサイクルの準備をしているのだ。
冬の厳しさがなければ、春の爆発的な生命力は生まれない。
冷たい風が害虫を殺し、重い雪が枝を折り(弱い枝を淘汰し)、森の新陳代謝を促す。
人生にも冬はある。
何をやってもうまくいかない時期、誰も評価してくれない時期、ただただ寒くて暗い時期。
だが、それは無駄な時間ではない。
それは、お前の根を深く伸ばすための時間だ。
外に向かって枝葉を伸ばせない時は、下に向かって根を伸ばせばいい。
暗闇の中で、じっと耐え、内なるマグマを溜め込むのだ。
大事なのは、季節は必ず巡ると信じることだ。
どんなに深い雪も、必ず溶ける時が来る。
止まない雨がないように、明けぬ夜がないように、終わらない冬などない。
この絶対的な宇宙の法則(サイクル)を信じきること。
「今は冬なのだ」と静かに受け入れ、春に備えて淡々と準備をすること。
その静かなる忍耐こそが、人生を盤石なものにする。
焦って無理やり花を咲かせようとするな。冬に咲く花は凍えて枯れるだけだ。
時を待て。機が熟すのを待て。
私のように、どっしりと構えていれば、季節の方からお前に追いついてくる。
頂上はゴールではない
最後に、お前たちがよく勘違いしていることについて話そう。
多くの人間が、私の「頂上」を目指して登ってくる。
息を切らし、汗を流し、苦悶の表情を浮かべながら、一歩一歩登ってくる。
そして頂上に着くと、「征服した!」と叫び、旗を立てたり写真を撮ったりして喜ぶ。
だが、私は言いたい。
「頂上は、ただの岩だ」と。
人生において、何かを成し遂げること、目標を達成すること、高い地位に就くこと。
それらを「頂上」と呼ぶならば、それは人生の目的そのものではない。
頂上からの景色は美しいが、そこに住むことはできない。
風は強く、空気は薄く、水もない。
長居すれば死ぬだけの場所だ。
お前たちが「人生」と呼ぶべきものは、頂上にあるのではない。
あの、汗を流して登っている最中の、一歩一歩にあるのだ。
苔むした岩に足を滑らせた瞬間、冷たい沢の水を手ですくって飲んだ瞬間、木漏れ日の美しさに足を止めた瞬間、そして苦しくて諦めそうになった瞬間。
そのすべてのプロセスの連続こそが、人生の正体だ。
頂上は、あくまで「登る理由」に過ぎない。
登ることそれ自体が、生きることなのだ。
だから、結果だけに執着するな。
「もし頂上に着けなかったら、この登山は無駄だったのか?」と問われれば、私は否と答える。
途中で引き返したとしても、その中腹で見た花の色は、お前の網膜に焼き付いているはずだ。
嵐で撤退したとしても、その自然の驚異に触れた恐怖は、お前の魂を太くしたはずだ。
結果(頂上)は、運や天候に左右される。
だが、プロセス(登山)は、お前自身の足が刻んだ確かな事実だ。
大事なのは、どこまで高く登ったかではない。
どのような足取りで、何を感じ、何を愛でながら登ったかだ。
山からの遺言
さて、そろそろ日が沈む。
私の影が長く伸び、麓の村を包み込もうとしている。
人間よ。
人生で一番大事なこと。
それは、この山のように生きることだ。
一、他者と比べず、ただ己の質量を持ってそこに在ること。
二、傷や苦難を、己を形作る歴史として愛すること。
三、孤独を友とし、内なる空と対話すること。
四、冬を恐れず、巡る季節を信じて待つこと。
五、頂上(結果)ではなく、登山(過程)そのものを慈しむこと。
難しく考えることはない。
お前もまた、星のかけらから生まれた、自然の一部なのだから。
都会の喧騒に疲れ、自分が何者か分からなくなった時は、いつでも私を見上げるがいい。
私はいつでもここにいる。
何も言わず、何も求めず、ただ圧倒的な肯定として、ここに座っている。
お前の中にも、私と同じような「揺るがない山」があるはずだ。
それを見つけなさい。
そうすれば、どんな嵐の中でも、お前は静かに微笑んでいられるだろう。
我が声は以上だ。
さあ、下山するがよい。夜の山は、人間にはいささか厳しすぎるゆえ。
足元に気をつけてな。
