こんにちは、池井戸潤です。

「人生で一番大事なことは何か」という問いをいただきました。私の小説を読んでくださっている方なら、おそらく私が「仕事」や「正義」、「逆転」といった言葉を大切にしていると感じておられるかもしれません。しかし、作家として、また一人の人間として、それらを突き詰めて考えていくと、最終的にはもっと根源的なひとつの答えに辿り着きます。

それは、「自分自身の仕事、そして生き方に『誇り(プライド)』を持てるかどうか」ということです。

3500字という限られた、しかし深い考察を巡らすには十分な紙幅を使い、私の考える「人生で最も大切なこと」について、いくつかの側面からお話ししましょう。


1. 「何をするか」よりも「どう向き合うか」

私はかつて銀行員でした。バブルの真っ只中に入行し、多くの企業の浮沈を間近で見てきました。その経験が今の作家としての土台になっています。銀行員時代、私が目にしたのは、数字の上では立派でも、中身が空っぽな経営者や、逆に、倒産寸前であっても決して志を失わない町工場の社長たちの姿でした。

世の中には、華やかな職業、高額な報酬、高い社会的地位といった「外側」の記号に価値を置く人が少なくありません。しかし、私の小説に登場する佃航平(『下町ロケット』)や宮沢紘一(『陸王』)がなぜ読者の共感を呼ぶのか。それは彼らが「大きな仕事」をしているからではなく、「自分の仕事に対して誠実であり、そこに命を懸けているから」です。

人生で一番大事なことの第一の柱は、「プロフェッショナルとしての矜持」です。

たとえ誰に気づかれなくても、自分の目の前の仕事に対して「これでいい」と妥協するのではなく、「これが最高だ」と言い切れるまで突き詰める。そのプロセスにこそ、人間の尊厳が宿ります。

2. 「見えない貸借対照表」を大切にする

ビジネスの世界には「バランスシート(貸借対照表)」というものがあります。資産と負債を整理し、その企業の価値を測るためのものです。しかし、人生には帳簿には載らない「見えないバランスシート」が存在します。

片方の側には「信頼」があり、もう片方の側には「誠実さ」があります。

嘘をついたり、誰かを陥れたりして得た成功は、帳簿上の数字は増やすかもしれませんが、人生のバランスシートを著しく歪ませます。不誠実という負債を抱え込んだ人生は、いつか必ずどこかで破綻をきたします。

私が描く半沢直樹は、理不尽な上司や組織の不正に対して「倍返し」を食らわせます。これは単なる復讐劇ではありません。彼が守ろうとしているのは、銀行という組織が本来あるべき姿であり、自分自身の「筋を通す」という誠実さです。

人生において、損得勘定で動くことは簡単です。しかし、「損をしてでも守らなければならない一線」が誰にでもあるはずです。その一線を守り抜くこと、つまり「自分に対して嘘をつかないこと」が、長い人生において最も大きな資産となります。

3. 「逆風」こそが人生の醍醐味である

私の作品の多くは、主人公が絶体絶命のピンチに陥るところから始まります。資金繰りのショート、大企業からの圧力、信頼していた仲間の裏切り。人生は、思うようにはいきません。むしろ、逆風が吹いている時間の方が長いかもしれません。

しかし、こう考えてみてください。風がなければ、飛行機は飛び立つことができません。向かい風が強ければ強いほど、揚力が生まれ、機体は高く舞い上がることができます。

人生における困難も同じです。ピンチの時に、その人の真価が問われます。

一番大事なことは、「壁にぶつかったときに、それを嘆くのではなく、どう乗り越えるかを面白がる力」です。

私は作家として、物語を書くとき、あえて主人公を窮地に追い込みます。なぜなら、そこから這い上がるプロセスにこそ、人間の本当の輝きがあるからです。現実の人生も同じです。苦境に立たされたとき、「さて、ここからどうひっくり返してやろうか」と不敵に笑える強さを持っていただきたい。

4. 誰のために、何のために働くのか

人生の後半に差し掛かると、多くの人が「自分の人生は何だったのか」と自問自答するようになります。その時、自分一人だけの成功や快楽を追求してきた人は、言いようのない虚しさに襲われるものです。

人生を豊かにするために必要なのは、「他者への貢献という視点」です。

『下町ロケット』の佃製作所が、なぜあれほどまでに熱くなれるのか。それは彼らが自分たちの技術が、宇宙開発や医療の現場で「誰かの役に立つ」と信じているからです。

「自分のため」だけでは、人間はどこかで限界が来ます。しかし、「誰かのため」「社会のため」という大義があれば、限界を超えた力が湧いてきます。

仕事とは、誰かの問題を解決し、誰かを幸せにすることの対価です。その原点を忘れないことが、人生を迷走させないための羅針盤となります。


結びに代えて:あなたの「物語」の主人公はあなた自身である

最後になりますが、人生で一番大事なこと、それは「自分の人生という物語の主人公であり続けること」です。

組織の中にいると、いつの間にか自分を「部品」のように感じてしまうことがあります。上司の顔色を伺い、周囲の空気に合わせ、自分の意見を押し殺す。そうして過ごす毎日は、自分の物語を他人に書き換えられているのと同じです。

しかし、ペンを握っているのは、いつだってあなた自身です。

どんなに小さな一歩でもいい。自分の信じる道を、自分の足で歩くこと。自分の決断に責任を持つこと。そして、一日の終わりに鏡に映る自分に向かって、「今日も精一杯生きた」と胸を張って言えること。

私が小説を通じて伝えたいのは、いつだって「働く人の誇り」です。

それはエリートサラリーマンであっても、工場の職人であっても、主婦であっても、学生であっても変わりません。自分の役割を理解し、そこに愛と情熱を注ぐ。その姿勢こそが、人生に輝きを与えます。

あなたの人生が、あなた自身の「誇り」に満ちた素晴らしい物語になることを、一人の作家として心から応援しています。

池井戸潤