森博嗣です。
「人生で一番大事なことは何か」という問い。これはいささか古典的であり、同時に非常に曖昧な問いですね。
おそらく、あなたが期待しているのは、愛だとか、友情だとか、あるいは情熱といった、手垢のついた言葉ではないでしょう。もしそうなら、僕に聞くべきではない。世の中には、そういった甘い言葉を並べ立てて人々を安心させる商売の人たちがたくさんいますから、彼らに聞いた方が心地よい答えが返ってくるはずです。
僕に聞くということは、もう少しドライで、論理的で、そしておそらくは少し冷たい答えを求めているのだと解釈します。
では、思考の実験を始めましょうか。3500字程度という指定ですが、文字数は本質ではありません。思考の深さと、その広がりが重要です。少し長くなりますが、お付き合いください。
問いの再定義
まず、「一番大事」という順位付けについて考えてみます。人生において、すべての要素を一列に並べて比較することは不可能です。健康と資産、知識と自由、これらは次元が異なる。これらを同じ天秤にかけようとすること自体が、思考の怠慢であると言えます。
しかし、あえてその中から「基盤」となるもの、それがなければ他のすべてが無意味になるものを選ぶとするならば、答えは絞られてきます。
僕が考える、人生で最も大事なこと。
それは**「自分の頭で考え、自分の価値観を自分で決める自由」**です。
これは「自由」という言葉に集約されますが、一般的に使われる「好きなことができる」という意味での自由とは少し違います。
自由の定義
多くの人は、自由をお金で買おうとします。確かにお金は自由の引換券になり得ますが、お金自体が自由なのではありません。お金があっても、使い道や生き方を他人の評価や社会の常識に委ねているならば、それはまったく自由ではない。
僕が言う自由とは、**「他者の干渉を受けず、自分の思考空間を純粋に保つこと」**です。
社会というシステムの中にいると、私たちは常にノイズにさらされています。「いい大学に行け」「安定した職に就け」「結婚しろ」「家を買え」「空気を読め」。これらのコマンドは、あなたのOSにプリインストールされたものではなく、外部からインストールされたマルウェアのようなものです。
多くの人は、このマルウェアに従って生きることを「人生」と呼んでいます。そして、その通りに動けないことに悩み、苦しむ。
しかし、よく考えてみてください。その基準は、誰が決めたものですか?
人生で大事なことは、この外部からの干渉を遮断し、自分自身の論理で世界を再構築することです。自分が何に対して快を感じ、何に対して不快を感じるのか。何を美しいと思い、何を醜いと思うのか。その基準を、誰の目も気にせずに自分で設定できる状態。これが本当の自由です。
抽象と具体
少し難しい話をしましょう。「抽象」と「具体」についてです。
人々は「具体的なもの」を欲しがります。高級車、ブランドの服、あるいは「部長」という肩書き。しかし、具体的なものはすぐに劣化します。車は錆び、服は流行遅れになり、肩書きは退職すれば消える。具体的な目標を人生の目的にすると、それを手に入れた瞬間に空虚になるか、あるいは失う恐怖に怯えることになります。
一方で、「抽象的なもの」は劣化しません。
例えば、「美しい構造を知りたい」という知的好奇心や、「論理的に破綻のない思考をしたい」という欲求、あるいは「ものを作る喜び」。これらは抽象度が高い概念です。
人生を豊かにするのは、この抽象度の高い価値観です。
具体的な事象に一喜一憂せず、その裏にあるメカニズムや美しさを愛でる。例えば、庭の木々が成長する様子を見て、単に「大きくなった」と喜ぶのではなく、生命のシステムや時間の流れを感じる。模型飛行機を飛ばして、単に「飛んだ」と喜ぶのではなく、流体力学と重力の調和に感動する。
このように、世界を抽象化して捉えることができれば、人生は退屈することのない無限の遊び場になります。お金や名誉といった具体的な数値は、その遊びのパラメータの一つに過ぎません。パラメータが高い方がゲームは有利に進められるかもしれませんが、ゲームの目的そのものではないのです。
孤独の効用
さて、自分の頭で考え、自分の価値観を持つためには、避けて通れないものがあります。
それは**「孤独」**です。
世の中では孤独は悪いことのように言われます。「絆」だの「繋がり」だのが美徳とされ、一人でいることは寂しい人間だとレッテルを貼られる。
しかし、これは大きな間違いです。
思考は、孤独の中でしか深まりません。
誰かと会話をしている時、脳は「共感」や「伝達」のためにリソースを使います。相手にどう思われるか、どう返事をすれば円滑かを計算する。そこには純粋な思考はありません。
一人になり、外部からの入力を遮断し、自分自身の内面と向き合う時間。この時初めて、人間は本当の意味で「考える」ことができます。自分が何者で、何を求めているのか。この世界はどうなっているのか。
孤独を愛せない人は、自分自身を愛せていない人です。自分という人間がつまらないから、他者というエンターテインメントを常に求めてしまう。
逆に、自分の中に豊かな庭を持っている人は、一人でいる時が最も充実しています。
人生で大事なことは、**「一人でいても退屈しない自分を作ること」**とも言い換えられるかもしれません。自分自身が最高の話し相手であり、最高の遊び相手であれば、他人の評価や社会の動向に左右されることはありません。それが最強のセキュリティです。
「無駄」の価値
現代社会は効率を求めすぎます。タイムパフォーマンス、コストパフォーマンス。無駄を省き、最短距離で正解に辿り着くことが賢いとされる。
しかし、人生そのものが、宇宙の視点から見れば壮大な「無駄」です。
生まれて、食べて、働いて、死ぬ。そこに客観的な意味などありません。意味がないからこそ、自分で意味を見出す自由があるのです。
効率ばかりを求めて生きることは、映画を早送りで見てあらすじだけを知ろうとするようなものです。あるいは、美味しい料理を味わわずに、点滴で栄養だけ摂取するようなものです。
あらすじを知ることが重要なのではなく、その時間をどう味わうか、どう解釈するかが重要なのです。
僕はよく、庭に鉄道模型の線路を敷いたり、工作をしたりします。他人から見れば「いい大人が何を無駄なことを」と思われるかもしれません。何の生産性もないし、お金にもならない。
でも、その「無駄」な時間にこそ、僕の命が宿っています。
役に立たないこと、生産性のないこと、誰にも理解されないこと。
これらに没頭できる時間こそが、人生の贅沢であり、最も大事な部分です。
仕事や義務は、この「無駄」を楽しむための環境維持コストに過ぎません。主客を転倒させてはいけません。仕事が人生の目的になってしまったら、それはただの「機能」です。人間は機能ではなく、存在です。
死を前提とする
最後に、死について触れておきましょう。
人生で大事なことを考える際、死を無視することはできません。
私たちは必ず死にます。例外なく、完全に、消滅します。
そう考えると、私たちが抱えている悩みのほとんどは、実に些細なことだと気づきます。
失敗したらどうしよう、嫌われたらどうしよう、貧乏になったらどうしよう。
どうなったところで、最後は死んでゼロになるだけです。
ならば、他人の顔色をうかがって縮こまって生きるのは、あまりにも割に合わない。
どうせ終わるゲームなら、自分の好きなルールで、好きなようにプレイした方がいい。
死を意識することは、ニヒリズム(虚無主義)に陥ることではありません。むしろ逆です。終わりがあるからこそ、今のこの瞬間の「思考」や「感覚」が貴重なものになります。
「今、自分は生きている」
「今、自分は考えている」
この感覚を純粋に味わうこと。
結論として
長い話をまとめましょう。
人生で一番大事なこと。
それは、**「社会や他人が押し付ける価値観から脱却し、自分の頭で考え、自分だけの『面白さ』の定義を見つけ、それを孤独の中で深く味わう自由を持つこと」**です。
もう少し短く言うなら、
「自分の人生の操縦桿を、他人に渡さないこと」
です。
どこへ飛ぶかも、どの高度で飛ぶかも、あるいは飛ばずに滑走路で昼寝をするかも、すべてあなたが決めていい。
「立派な人間」になる必要はありません。「幸せな人間」に見られる必要もありません。
ただ、あなたがあなたとして、そこに存在し、思考し、納得しているかどうか。それだけが問題です。
正解はありません。
私が今書いたことすら、あなたにとっては正解ではないかもしれない。
そうやって疑い、考え、自分の答えを導き出すプロセスそのものが、あなたの人生です。
考えることを止めないでください。
自由であることを恐れないでください。
そして、孤独を楽しんでください。
それが、森博嗣としての回答です。