エプロンを締め直させてください。……ふぅ。

いきなり「人生で一番大事なことは何か」なんて、そんな大層なことを聞かれてもねえ。僕はただの、絵を描く還暦をとうに過ぎた爺さんですよ。哲学者でも宗教家でもない。毎日毎日、こうして机にかじりついて、肩が凝った、腰が痛いと文句を言いながら、鉛筆を動かしているだけの人間です。

でもまあ、あなたがどうしてもと言うなら、少しだけ話してみましょうか。たぶん、まとまりのない話になりますよ。僕の頭の中はいつも、ゴミ屋敷みたいにごちゃごちゃしていますから。

一番大事なこと。

そう聞かれて、パッと気の利いた言葉が出てくるようなら、僕は映画なんて作っていませんよ。言葉で言い表せないから、何年もかけて、何万枚も絵を描いて、やっとこさ「こういうことかもしれない」と手探りしているんです。

ただ、今の時点で、この歳になって思うのはね、「面倒くさいことを、あえて引き受けること」かもしれません。

僕の口癖を知っていますか?「ああ、面倒くさい、面倒くさい」って、いつも言ってるんです。絵コンテを描くのも面倒くさい。色を決めるのも面倒くさい。人と関わるのも面倒くさい。生きるのなんて、最高に面倒くさいことですよ。

今の世の中は、その「面倒くさい」を徹底的に排除しようとしていますよね。ボタン一つで何でも買える。誰とも話さずに食事ができる。AIだとか何だとかが、人間がやるべき苦労を全部肩代わりしてくれる。効率、効率、コスパ、タイパ。……馬鹿じゃないかと思いますよ。

あのね、大事なものは、その「面倒くさい」の中にしか隠れていないんです。

誰かと関係を築くのなんて、本当に厄介でしょう。傷つけたり、傷つけられたり、誤解したり。でも、その厄介なやり取りの中にしか、本当の愛とか信頼とか、そういう温かいものはないんですよ。スマートフォンの画面をスワイプして得られる「つながり」なんて、そんなものは幻想です。

仕事だってそうです。楽をして結果だけ手に入れようとする。そんなものに魂が宿るわけがない。鉛筆を削って、紙の匂いを嗅いで、指先を真っ黒にして、自分の神経をすり減らして描いた線にしか、命は宿らないんです。手間をかけること、時間をかけること、思い通りにならない物質や他人と格闘すること。その摩擦熱みたいなものが、僕たちが「生きている」という実感そのものなんじゃないですか。

だから、一番大事なことは「面倒くさいことを愛すること」と言えるかもしれません。

それとね、もう一つ。「世界は美しい」と信じることです。

これは難しいですよ。だって、現実はひどいことばかりでしょう。戦争はなくならない、環境は破壊される、大人は嘘をつく、弱い者が虐げられる。ニュースを見れば絶望したくなるようなことばかりです。人間なんて、地球にとって害虫みたいなものかもしれないと、本気で思う夜もあります。

僕はずっと、そういう人間の愚かさや、業(ごう)みたいなものに絶望しながら生きてきました。人間は、空を飛びたいという美しい夢を持ちながら、それを爆撃機に変えてしまう生き物なんです。呪われた夢を生きているんです、僕たちは。

でもね、それでも……世界は美しいんです。

ふと窓の外を見た時に、木々が風に揺れている。雲が流れていく。子供が水たまりで跳ねている。あるいは、隣にいる誰かがふっと笑う。そういう瞬間に、理屈抜きで「ああ、生きていてよかった」と思える輝きがある。

この矛盾を抱えて生きるのが、人間の仕事です。

世界は残酷で、汚くて、救いようがない。だけど、同時に、息を飲むほど美しくて、愛おしい。

この二つはセットなんです。どちらか片方だけを見るのは嘘です。絶望だけを見るのはニヒリズムだし、綺麗事だけを見るのは欺瞞です。

泥沼の中から蓮の花が咲くように、このどうしようもない世界の中で、それでも一瞬のきらめきを見つけ出し、それを大事に抱きしめること。

「生まれてきてよかったんだ」と、子供たちに、そして自分自身に言い聞かせること。

それが僕たちの戦いなんじゃないでしょうか。

子供たちの話をしましょうか。

僕がなぜアニメーションを作っているかといえば、結局のところ、子供たちのためなんです。「この世は生きるに値するんだ」と伝えたいからなんです。

今の子供たちは、生まれた時から閉塞感の中にいます。未来は暗い、地球は終わる、年金はもらえない。そんなことばかり大人たちが騒いでいる。そんな世の中で、どうやって希望を持てというんですか。

大人が自信を持って「いいから生きろ」と言ってやれないなんて、恥ずかしいことですよ。

だから僕は、映画の中で嘘をつきます。いや、嘘じゃないな。願望を形にするんです。

空を飛ぶ浮遊感、走る時の疾走感、美味そうな食べ物、不気味だけど憎めない妖怪たち。そういったものを描くことで、「ねえ、世界ってこんなに不思議で、こんなに面白いんだよ」と、子供たちの肩を叩きたいんです。

「君は、君のままでいいんだ」とか、「ありのままで」とか、そういう甘い言葉は言いませんよ。生きるのは過酷です。魔法なんてないし、王子様も助けに来ないかもしれない。

でも、君自身の足で立って、君自身の目で世界を見れば、そこには必ず発見がある。出会いがある。

その力を、子供たちは本来持っているんです。大人がそれを奪っているだけなんです。

だから、人生で大事なこと。それは「子供の時の感覚を殺さないこと」かもしれません。

草の匂いにドキドキしたり、暗闇を怖がったり、理不尽なことに本気で怒ったりする、あの野生の感覚です。

大人になるにつれて、僕たちは賢くなります。諦めることを覚えます。「仕方がない」という言葉で自分を守るようになります。

でも、魂の深いところには、まだあの頃の自分がうずくまっているはずです。そいつを殺しちゃいけない。そいつが「こんなのおかしい!」と叫ぶ声を、無視しちゃいけないんです。

少し話が逸れましたか?

まあ、いいでしょう。人生なんて寄り道の連続ですから。

結局のところ、僕が言いたいのは「半径3メートルを大事にしろ」ってことかな。

世界平和だとか、人類の未来だとか、そんな大きなことを考える前に、まずは自分の目の前にいる人を大事にする。自分の手元にある仕事を一生懸命やる。今日食べるご飯を「美味しい」と感謝して食べる。

そういう、ささやかな日常の積み重ねが、いつか世界を変えるかもしれないし、変えないかもしれない。

でも、僕たちが確実に触れられるのは、その半径3メートルだけなんですよ。

僕は昔、「風立ちぬ」という映画で、ポール・ヴァレリーの詩を引用しました。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」

風が吹いた。生きようと試みなければならない。

生きるというのは、受動的なことじゃないんです。心臓が動いているから生きているわけじゃない。

どうしようもない混沌とした世界の中で、風に吹き飛ばされそうになりながらも、足を踏ん張って、「ここで生きるんだ」と意志を持つことなんです。

狂気を孕んだこの世界で、正気を保つこと。

絶望的な状況でも、ユーモアを忘れないこと。

そして、どんなに年をとっても、世界に対する好奇心を失わないこと。

僕はもうすぐ、向こうの世界へ行くでしょう。この世に未練がないと言えば嘘になります。もっと描きたい絵があるし、もっと見たい景色がある。

でも、次の世代にバトンを渡さなきゃいけない。

僕ができるのは、散らかった仕事場を少し片付けて、「あとは頼んだよ」と背中を見せることくらいです。

あなたに言いたいのは、どうか、情報を食べるのではなく、体験を食べてください、ということです。

ネットで検索した知識なんて、頭の上のフケみたいなもんです。払えば落ちる。

でも、自分の足で歩いて、汗をかいて、恥をかいて手に入れた感覚は、あなたの血肉になります。

今の人は頭が良すぎる。頭でっかちになって、体が動いていない。

もっと土に触れなさい。風を感じなさい。

人間はね、アスファルトとコンクリートに囲まれて生きられるようにはできていないんです。

時には靴を脱いで、素足で地面を踏んでみなさい。そこからしか得られないエネルギーがあるんです。

……ああ、話しているうちに、また描きたくなってきました。

やっぱり僕は、何かを作っていないと落ち着かない性分なんです。

「大事なこと」なんて偉そうに語りましたけど、明日の朝にはまた違うことを言っているかもしれませんよ。「やっぱり人生は金だ」とかね(笑)。

人間なんてそんなもんです。矛盾してていいんです。

大事なのは、答えを探し続けるそのプロセスそのものです。

「生きるとは何か」なんて問いに、正解のマルがついた答案用紙はありません。

あなたが悩み、苦しみ、笑い、泣き、そうやってジタバタとのたうち回った足跡。それが、あなただけの正解になるんです。

だから、まあ、気楽に、でも真剣に、やっていきましょうよ。

この世は、生きるに値する場所です。たぶんね。

さあ、僕は仕事に戻ります。

締め切りが迫ってるんだ。ああ、面倒くさい、面倒くさい。

でも、やるしかないんだよなあ。

……まだそこにいるんですか?

もういいでしょう。外に出て、風に当たってきなさい。

いい風が吹いていますよ。

いざ、生きめやも、です。