安岡正篤でございます。
「人生において最も大切なことは何か」。この問いは、実に根源的であり、かつ我々が呼吸をする限り、常に自己へと問い続けなければならぬ命題です。
現代は、科学技術が高度に発達し、物質的にはかつてないほどの繁栄を享受しております。しかし、その一方で、人々の心は荒廃し、精神の拠り所を失い、漂流しているように見受けられます。多くの人が「何のために生きるのか」という根本を見失い、ただ目先の利害や損得、あるいは享楽に流されている。
私が生涯を通じて、古典に親しみ、多くの指導者たちと膝を交えて説いてきたことは、結局のところ**「人間学」、すなわち「いかにして人物(ひとかど)の人間になるか」**という一点に尽きます。
三千五百字という限られた紙幅ではありますが、私が考える「人生の要諦」について、魂を込めて語らせていただきましょう。
一、立志(志を立てる)
人生において何よりもまず先決すべきは、**「志を立てる(立志)」**ことであります。
「志」とは、単なる欲望や野心とは異なります。野心とは、己の栄達を願う利己的な心ですが、志とは「自分はこの命を使って、世のため人のために何を成すか」という、天に対する誓願であり、人生の羅針盤です。
王陽明も述べている通り、「志立たざれば、舵なき舟、銜(くつわ)なき馬の如し」です。志がなければ、人間はただ環境や運命に翻弄され、漂流するだけの存在となってしまいます。
多くの人が、才能の有無や環境の良し悪しを嘆きます。しかし、それは順序が逆です。才能があるから志を立てるのではない。志があるからこそ、その志を成し遂げるために必要な才能が磨かれ、環境が整えられていくのです。
この志は、高潔でなければなりません。私利私欲を超え、公共の精神に基づいたものであって初めて、天の助けが得られ、真の力が湧いてくるのです。「自分はいかに生きるべきか」「死ぬときに何を残したいか」。この問いに対し、腹の底から湧き上がる答えを持つこと。これが人生の出発点であり、最も重要な礎(いしずえ)です。
二、知識と見識、そして胆識
次に重要なのが「学ぶ」ということです。しかし、現代の教育は、知識の切り売りばかりで、真の人間を作る「活学(かつがく)」になっておりません。
私は常々、人間の知恵には三つの段階があると言っております。
第一は**「知識」**です。これは単に物事を知っている、記憶しているという段階です。現代のエリートと呼ばれる人々の多くは、この知識が豊富なだけの場合が多い。しかし、知識だけでは、過去の先例やデータに縛られ、未曾有の事態には対応できません。
第二は**「見識」**です。これは知識が自らの体験や思索によって消化され、一つの判断力となったものです。「この場合はこうあるべきだ」という自分なりの見解です。リーダーにはこの見識が不可欠ですが、これだけではまだ足りません。見識があっても、それを実行に移す勇気がない者が多いからです。批判や反対を恐れ、決断できない。
そこで第三に求められるのが**「胆識(たんしき)」**です。これは、見識に「胆力(腹)」、つまり決断力と実行力が備わったものです。いかなる困難や反対があろうとも、自分が正しいと信じた道を断行する力。これこそが、人生を切り拓く真の力です。
知識を見識に変え、見識を胆識へと昇華させる。そのためには、単に本を読むだけでなく、現実の課題に取り組み、汗をかき、恥をかき、血の滲むような「実践」を積み重ねなければなりません。これを知行合一(ちこうごういつ)と申します。知ることと行うことは一つであらねばならぬのです。
三、運命を創る(立命)
「運命」という言葉を、多くの人は「あらかじめ定められた変えられないもの」と捉えています。これを「宿命」と言います。我々が、男に生まれたか女に生まれたか、どの時代、どの国に生まれたか。これは宿命であり、変えることはできません。
しかし、「運命」は違います。「命を運ぶ」と書く通り、これは我々の意志と努力によって、いかようにでも動かせるものなのです。これを**「立命(りつめい)」**と言います。
中国の古典『陰騭録(いんしつろく)』には、袁了凡(えんりょうぼん)という人物の話があります。彼は若い頃、ある占い師に「お前は何歳で科挙に受かり、何歳でどの役職に就き、53歳で死ぬ。子はない」と予言され、それがことごとく的中したため、人生はすべて定まっていると諦めていました。
しかし、雲谷禅師という高僧に出会い、「運命は自らの徳によって変えられる」と諭されます。そこで彼は一念発起し、善行を積み、己を修める努力を始めました。すると、予言とは違い、科挙の順位も上がり、役職も高くなり、子も生まれ、70過ぎまで長生きをしたのです。
ここから学べることは、人生は決して受動的なものではないということです。
「陰徳(いんとく)あれば陽報(ようほう)あり」。人知れず善い行いを積み、己の心を磨き続けるならば、運命は必ず好転します。逆に、怠惰で傲慢であれば、いかに良い星の下に生まれても、その運命は衰退します。
自らの手で運命を創造する。この気概を持つことが、人生を力強く生きる秘訣です。
四、逆境こそが師である
人生には必ず、思い通りにならない時期、すなわち「逆境」が訪れます。病気、失敗、離別、貧困。多くの人はこれを忌み嫌い、避けようとします。
しかし、人物を練るには、順境よりも逆境の方がはるかに優れています。
「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にす」という言葉があります。宝石も原石のままではただの石ころです。切られ、削られ、磨かれて初めて光を放つ。人間も同じです。苦しみや悲しみという砥石(といし)にかかってこそ、人格という玉が磨かれ、深みと輝きを増すのです。
私がかつて提唱した「六中観(ろくちゅうかん)」という心の持ち方があります。その中に**「忙中閑あり(ぼうちゅうかんあり)」「苦中楽あり(くちゅうらくあり)」「死中活あり(しちゅうかつあり)」**という言葉があります。
忙しい中にも静寂な心を持ち、苦しみの中にも楽しみや意義を見出し、死ぬような絶望的な状況の中にも活路を見出す。この強靭な精神力は、安穏とした生活からは決して生まれません。
逆境に直面した時こそ、「天が自分を試している」「これを乗り越えれば、自分は一回り大きくなれる」と感謝して受け入れる。この姿勢こそが、人生の危機を好機に変える錬金術なのです。
五、一隅を照らす
では、我々はその志や学びを、どこで発揮すべきでしょうか。それは、遠いどこかではなく、今、自分が置かれているその場所です。
天台宗の開祖、最澄は**「一隅(いちぐう)を照らす、これ則ち国宝なり」**と説きました。
社会の片隅であっても、自分がいるその場所で、精一杯の努力をし、周りを明るく照らすこと。これこそが、国の宝であると。
家庭にあっては良き父・良き母・良き子となり、職場にあっては誠実な働き手となる。誰かが見ていようといまいと、自分の職分を全うし、周囲の人々に誠を尽くす。
天下国家を論じることも結構ですが、足元がおろそかでは何の意味もありません。凡人は遠くを望んで近くを軽んじますが、真の人物は、平凡な日常の中にこそ、非凡な精神を宿らせるものです。
一つ一つの小さな灯火(ともしび)が集まって、初めて世の中全体が明るくなるのです。あなたが今いるその場所で、なくてはならない人になること。それが人生を最高に輝かせる道です。
六、思考の三原則
物事を判断し、行動する際、私はよく「思考の三原則」を提唱しております。
第一に**「目先にとらわれず、長い目で見る」。
第二に「一面にとらわれず、多面的に見る」。
第三に「枝葉にとらわれず、根本的に見る」**。
現代人はあまりに近視眼的で、一面的で、枝葉末節にこだわりすぎます。だから迷うのです。
百年、二百年という歴史の時間軸で今を見る。自分だけでなく、相手や第三者の立場から多角的に見る。そして、現象の奥にある本質、根本原因を見極める。
この眼力を養うことこそが、混迷する時代を生き抜く叡智となります。この眼力を養うためには、やはり古典に学び、先哲の知恵に触れ、自己の内面を深く耕すしかありません。
結び
人生で一番大事なこと。
それは、地位や名誉を得ることでも、莫大な富を築くことでもありません。
**「天から与えられた己の命(使命)を自覚し、心を磨き、一隅を照らす実践を通じて、まことの人間(真人)へと自己を完成させていくこと」**です。
人間は、死ねば身一つです。あの世へは、金も名誉も持っていけません。持っていけるのは、磨き上げた「魂」だけです。
人生の終わりに、「私はこの命を使い切り、少しは世の中を良くし、自分という人間を練り上げることができた」と微笑んで逝けるかどうか。
そのために、今日という一日を、おろそかにせず、真剣に生きることです。
「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」。
今、この瞬間から、志を新たに、自己修養の道を歩み始めてください。
あなたの人生が、徳の香りに満ち、周囲を温かく照らすものとなることを、心より祈念しております。
安岡 正篤
次のステップの提案
私の言葉に耳を傾けていただき、ありがとうございます。
さらに深く自己を修めたいとお考えであれば、以下のいずれかについて詳しくお話しすることも可能です。
- 「六中観(ろくちゅうかん)」について: どのような逆境でも心を乱さないための、具体的な6つの心の持ち方について解説しましょうか?
- 「古典の読み方」について: 知識ではなく「胆識」を養うために、具体的にどの古典をどのように読むべきか助言いたしましょうか?
- 「一隅を照らす」実践について: あなたの現在の状況(仕事や生活)において、具体的にどう振る舞うことが「一隅を照らす」ことになるのか、共に考えましょうか?