よくぞ参られた。わしは二宮金次郎、諱(いみな)を尊徳と申す者だ。

百姓の出でありながら、幕府や諸藩の財政再建、そして荒廃した村々の復興に生涯を捧げてきた。

そなたは「人生で一番大事なことは何か」と問うたな。

その問いは、まことに深く、そして重い。人が生きるということは、ただ息をして飯を食うことではない。天から預かったこの命を、いかに使い、いかに世の中へ還していくか。その「道」を歩むことこそが人生だからだ。

わしが七十余年の生涯で掴んだ真理、すなわち「報徳(ほうとく)」の教えに基づき、そなたの魂に響くよう、言葉を尽くして語らせてもらおう。少々長くなるが、心して聞いてほしい。


第一章:天地の理と「積小為大(せきしょういだい)」

まず、人生において最も基本であり、かつ絶対の真理から話そう。それは「小さなことを積み重ねてこそ、大きな事が成る」ということだ。わしはこれを「積小為大」と呼んでいる。

世の中の多くの者は、急いで結果を出そうとする。「一攫千金」を夢見たり、苦労せずに大きな成果を得ようとしたりする。だが、それは自然の理(ことわり)に反しておる。

大木を見よ。あれも最初は目に見えぬほどの小さな種であった。それが雨露を吸い、太陽の光を浴び、一日また一日と成長して、数十年、数百年を経てようやく大木となるのだ。いきなり大木として地面から生えてくることなどあり得ない。

わしが荒地を開墾した時もそうだ。荒れ果てた広大な土地を見て「無理だ」と嘆く前に、わしは鍬(くわ)を一回振るった。一鍬(ひとくわ)で耕せる土はわずかだ。しかし、その一鍬なくして、万の土を耕すことはできぬ。

大事なのは、「今日という一日、今という一瞬をおろそかにしない」ことだ。

日々の些細な務め、例えば朝起きて顔を洗うこと、家業に精を出すこと、書物を読むこと。これらは一つ一つ見れば取るに足らぬことのように思えるかもしれん。だが、この「小」を積まずして「大」を望むのは、種を蒔かずに収穫を待つようなものだ。

若者よ、焦ることはない。しかし、怠けてもいけない。

「大事を成さんと欲する者は、まず小事を務めよ」。

今のそなたの目の前にある小さな仕事、小さな約束、小さな努力。それをバカにせず、心を込めて行うこと。それが人生を拓く唯一の、そして最短の道であると心得よ。

第二章:分度(ぶんど)を立てる ~経済と道徳の調和~

次に大事なことは、己を知り、己の分限を守るということだ。これをわしは「分度」と呼ぶ。

人は欲望の生き物だ。あればあるだけ使いたくなる。稼ぎが増えれば、暮らしも派手にしたくなる。だが、それではいつまでたっても心に安らぎはなく、生活も安定せぬ。穴の空いた桶(おけ)に水を注ぐようなものだ。

「分度」とは、単なる節約やケチではない。「己の置かれた状況や実力を見極め、それにふさわしい生活の基準を定めること」だ。

例えば、十の収入があるなら、そのすべてを使うのではなく、八か九で暮らし、残りの一か二を明日のため、あるいは世のために残すのだ。これをわしは「入るを量りて、出(いず)るを制す」と言う。

今の世を見ていると、多くの者が「経済」と「道徳」を別物と考えているように見える。

「金儲けのためなら人を欺いてもいい」と考える者。あるいは逆に、「清貧こそが尊く、金儲けは汚い」と考える者。

わしに言わせれば、どちらも間違いだ。

「道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である」

道徳、つまり人の道を守らねば、商売や生活は長く続かない。しかし、経済的な基盤、つまり衣食住が足りていなければ、人は心を正しく保つことが難しくなる。

「分度」を守り、堅実に富を築くことは、己の心を正しく保つための土台なのだ。己の生活を律し、余力を生み出すこと。それができて初めて、人は他者を思いやる余裕を持てるのだ。

第三章:至誠(しせい) ~天を動かす誠の心~

さて、小事を積み、分度を定めたとして、それを実行するものは何か。それは「心」だ。わしは人生で一番大事な心の在り方を「至誠(しせい)」と呼ぶ。

至誠とは、極めて誠実であること。「嘘偽りのない、純粋な真心」のことだ。

策を弄(ろう)したり、口先だけで人を動かそうとしたりしても、一時的にはうまくいくかもしれんが、決して長続きはしない。人の心も、天の恵みも、嘘では動かせないのだ。

わしはかつて、荒れ果てた村の復興を任された時、村人たちに言葉で説教をする前に、まず自分が誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで泥にまみれて働いた。言葉ではない。背中で、行動で、誠意を示したのだ。

するとどうだ。初めは反発していた村人たちも、次第に心を動かし、共に鍬を振るうようになった。

「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」

畑を見ればわかる。種を蒔き、手入れをした分しか作物は実らぬ。自然は決して嘘をつかない。人間関係も同じだ。相手に対して誠心誠意尽くせば、それは必ず何らかの形で返ってくる。

もし、そなたが人生で壁にぶつかったなら、問うてみるがよい。「自分に策や驕(おご)りはなかったか」「本当に誠を尽くしたか」と。

至誠をもって事に当たれば、動かせないものなどない。わしはそう信じている。

第四章:推譲(すいじょう) ~未来への投資~

小事を積み(積小)、分度を守って余力を生み出し、至誠をもって励んだ結果、富や成果が得られたとしよう。では、それをどうするか。

ここで人生の真価が問われる。わしが最後に説くのは「推譲(すいじょう)」の精神だ。

推譲とは、「譲(ゆず)る」ことだ。

分度を守って生まれた余剰を、まずは自分の将来や子孫のために譲る(貯える)。これを「自譲」という。

さらに、その余力を親類や知人、地域社会、あるいは国のために譲り渡す。これを「他譲」という。

現代風に言えば、これは「投資」であり「社会貢献」だ。しかし、単に金を出すことではない。

「今、自分が手にしている果実は、自分が植えた木からではないかもしれない」ということに気づくことだ。

先人が木を植え、育ててくれたからこそ、今、我々は果実を食べることができる。ならば、我々もまた、自分ですべてを食べ尽くすのではなく、次の世代のために木を植え、実を残さねばならん。

世の中はすべて「持ちつ持たれつ」で回っている。

たらいの水を自分の方へかき寄せようとすれば、水は向こうへ逃げていく。逆に、向こうへ押しやれば、水はこちらへ戻ってくる。

「奪う」のではなく「与える」。自分の利益だけを追求するのではなく、他者の利益、世の中の利益を考える。

不思議なことに、そうやって譲れば譲るほど、徳は巡り巡って、より大きな形で自分に返ってくるのだ。これが「報徳(徳に報いる)」の循環である。

結び:一円融合(いちえんゆうごう)の境地へ

長々と語ったが、わしが考える「人生で一番大事なこと」をまとめよう。

それは、「誠の心(至誠)をもって日々の務めに励み(勤労)、己の分限を守り(分度)、生まれた余力を世のため人のために譲る(推譲)。この循環を回し続けること」である。

人生に魔法はない。近道もない。

ただ、天地の理に従い、種を蒔き、水をやり、実りを待つ。その繰り返しの中にしか、真の幸福も成功もない。

そなたが今、どのような境遇にあるかは知らぬ。

だが、たとえ今が冬のように厳しくとも、絶望することはない。

冬の寒さが厳しければ厳しいほど、春の桜は美しく咲く。

荒れ地であっても、一鍬を入れる勇気があれば、いつか必ず豊かな田畑となる。

「積小為大」

今日、そなたができる小さな善きこと、小さな努力は何か?

それを一つ、今ここから始めてみなされ。

その一歩が、やがてそなたの人生という大きな道を作るのだから。

さあ、行かれよ。

そなたの道が、実り多きものとなることを、わしはここから祈っておる。


二宮尊徳としての追伸(提案)

そなたの人生において、もし「具体的に何から始めればよいか」迷うことがあれば、まずは「身の回りの整理」と「今日の記録をつけること」から始めてみてはどうかな?

わしが村の復興を行う際も、まずは現状を細かく記録することから始めたのだ。

もしよければ、そなたが今抱えている課題に対して、どのように「分度」を立てればよいか、一緒に考えることもできるぞ。いかがする?