「魔術師」。

人は私のことをそう呼びました。あるいは「知将」「策士」とも。

しかし、私が振っていたのは魔法の杖ではありません。私が振っていたのは、ただのタクトであり、時にそれは非情なまでの「理(り)」であり、そして何よりも「人間という不可解な生き物への興味」でした。

私の人生を振り返り、そこから導き出される「人生で一番大事なこと」。それを語るには、少し長くなりますが、私の野球人生そのものを紐解く必要があるでしょう。3500字、長いイニングになりそうですが、どうか最後までお付き合い願いたい。


第一章:理と情の狭間で

私が生きた時代、野球はまだ「根性」や「精神論」が支配していました。竹槍で戦闘機を落とそうとするような、非科学的な情熱が美徳とされた時代です。しかし、私は早稲田大学時代から、野球を科学として、確率のゲームとして捉えていました。勝負は、気合だけで決まるものではない。相手の戦力を分析し、こちらの駒をどう配置すれば勝率が上がるか。それは冷徹な計算の上に成り立つものです。

しかし、人生において最も大事なことは、その「理(計算や論理)」を突き詰めた先にある、「情(人の心)」の爆発力を信じることなのです。これこそが、私が生涯をかけて学び、実践してきた哲学です。

私の野球人生における最初の大きな挫折、それは巨人軍を追われたことでした。水原茂というライバルの存在、そして球団内の派閥争い。私は「理屈っぽい」「扱いづらい」と疎まれ、勝利をもたらしたにもかかわらず、その座を追われました。あれは屈辱でした。エリート街道を歩んできた私にとって、初めて味わう「敗北」の味は、砂を噛むように苦いものでした。

しかし、この挫折が私を変えました。もし私が巨人に留まり続けていれば、ただの「勝って当たり前の監督」で終わっていたでしょう。九州の地、西鉄ライオンズへ赴いたことで、私は「人間」を知ることになったのです。

第二章:野武士たちと見た「奇跡」の正体

西鉄ライオンズ。そこは洗練された巨人の紳士たちとは対極にある、荒くれ者たちの集団でした。中西太、豊田泰光、そして稲尾和久。彼らは型にはまりません。門限も守らなければ、私の戦術論を聞いているのかどうかも怪しい。

ここで私は悟りました。「人は、管理しようとすればするほど反発し、縮こまる」と。

人生で大事なことの一つは、「他者をコントロールしようとする傲慢さを捨てること」です。監督である私の仕事は、彼らを私の型に嵌めることではありませんでした。彼らが持っている、本人さえ気づいていない「野生の力」を引き出す環境を作ること。それが私の仕事でした。

私は彼らを「野武士」と呼び、自由を与えました。しかし、それは放任とは違います。肝心な場面、勝負の要所においてのみ、私は彼らの手綱を引く。それ以外は、彼らのプライドと本能に委ねる。するとどうでしょう。彼らは私の想像を遥かに超える力を発揮し始めたのです。

1958年の日本シリーズ。相手は巨人の水原茂。私は3連敗し、崖っぷちに立たされました。世間は「三原は終わった」と言いました。しかし、私の心の中にあったのは諦めではありません。「これで失うものはなくなった」という、奇妙な静けさでした。

第4戦、雨による中止。これが「流れ」を変えました。私はこの雨を見て、選手たちにこう言ったのではありません。「勝て」と。ただ、「これで少し休めるな」と。

そこからの4連勝。「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれたあの奇跡の逆転劇。あれは私が魔法を使ったのではありません。追い込まれた人間が、開き直り、互いを信頼し合った時に生まれるエネルギーの奔流。それを私はベンチの片隅で、震える思いで見つめていました。

大事なのは、「計算」です。しかし、もっと大事なのは「計算外のこと」が起きた時に、それを面白がる度量です。人生も野球も、筋書きのないドラマです。3連敗という絶望的な状況を、「ここからがドラマの始まりだ」と捉え直せるかどうか。その「視点の転換」こそが、奇跡を呼び込む唯一の鍵なのです。

第三章:弱者の兵法、敗者の矜持

西鉄での黄金時代の後、私は大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の監督に就任しました。当時の大洋は、6年連続最下位という、どうしようもないお荷物球団でした。「三原でも無理だ」と誰もが笑いました。

しかし、私には勝算がありました。いや、勝算というよりは「確信」がありました。「負け犬根性が染み付いている人間ほど、一度勝ちの味を知れば、誰よりも貪欲になる」という確信です。

人生において、自分が「弱者」であると自覚することは、恥ではありません。むしろ最大の武器になります。持たざる者は、失う恐怖を知りません。エリートが守りに入るとき、弱者は捨て身で攻めることができる。

私は大洋の選手たちに、徹底して「プロフェッショナルとは何か」を説きました。ユニフォームの着こなしから、マスコミへの対応、そしてファンへの感謝。技術の前に、心の在り方を変えさせたのです。「君たちは弱いのではない。勝ち方を知らないだけだ」と。

そして1960年、前年最下位のチームを優勝、日本一へと導きました。

この時、私が用いたのは「超二流」の選手たちを組み合わせ、一流に勝つという戦法です。ホームランバッターがいなければ、足を使えばいい。エースがいなければ、継投で幻惑すればいい。

自分に配られたカードが悪いと嘆くのは、三流のすることです。人生で大事なことは、配られたカードの「組み合わせ」を考え抜くことです。一見役に立たないように見えるカード(才能)も、出すタイミングと組み合わせ次第で、ジョーカーを殺す切り札になる。自分の欠点を嘆く暇があったら、それをどう「武器」に転用するかを考える。それが「知恵」というものです。

第四章:流れる水のように

私の采配は「三原マジック」と呼ばれましたが、その本質は「流れ(Flow)」を読むことにありました。

野球も人生も、目には見えない「流れ」が存在します。良い流れの時は、何もしなくてもうまくいく。しかし、悪い流れの時は、どんなに努力しても裏目に出る。

多くの人は、悪い流れの時にジタバタともがきます。焦って余計なことをし、深みにハマる。

私が思うに、人生で最も重要なスキルの一つは、「待つこと」です。

悪い流れの時は、じっと耐えて、嵐が過ぎるのを待つ。そして、微かな風向きの変化を感じ取った瞬間に、全勢力を注ぎ込んで勝負に出る。この「機を見る目」を養うことこそが、勝負師としての、いや、人間としての極意です。

私はしばしば、定石を無視した采配をしました。「当て馬」作戦や、奇想天外な守備シフト。それは単なる奇をてらった行動ではありません。相手の思考を停止させ、場の空気を変え、流れを無理やりにでもこちらへ引き寄せるための、計算された演出でした。

人生という舞台において、時には「常識」という名の台本を破り捨てる勇気を持ってください。周囲が「右」と言うときに、あえて「左」を見る。停滞した空気を壊すトリックスターになる。それが、閉塞した状況を打破する唯一の方法であることも多いのです。

第五章:人生で一番大事なこと

さて、長々と語ってきましたが、結局のところ、私が考える「人生で一番大事なこと」とは何でしょうか。

勝利でしょうか? いいえ、勝利はあくまで結果に過ぎません。勝利の美酒は確かに甘いですが、その酔いは一晩で醒めます。

名誉でしょうか? 「魔術師」という異名も、死んでしまえば墓石に刻まれるただの文字です。

私が思うに、人生で一番大事なこと。

それは、「人間というドラマに、最後まで飽きないこと」です。

勝つ喜び、負ける悔しさ。裏切り、信頼。予想外のハプニング、奇跡のような逆転劇。

それら全てを含めて、人間が織りなす筋書きのないドラマを、特等席で味わい尽くすこと。

監督としてベンチに座り、グラウンドで躍動し、あるいは苦悩する選手たちの姿を見ている時、私は無上の喜びを感じていました。そこには、計算では割り切れない「生命の輝き」があったからです。

もし、あなたが今、人生という試合で負け越しているとしても、腐ってはいけません。

9回裏ツーアウト、ツーストライクからでも、試合はひっくり返せます。いや、たとえ試合に負けたとしても、その負け方の中に、次のシーズンの勝利への種が隠されています。

私は、合理主義者でありながら、ロマンチストでした。

データ重視でありながら、最後は人の情熱に賭けました。

その矛盾の中にこそ、人生の面白さがあります。

これからを生きていくあなたへ。

どうか、自分の人生の「監督」であることを放棄しないでください。

どんなに劣勢でも、どんなに戦力が足りなくても、采配一つで局面は変えられます。

「次はどんな手を打ってやろうか」

「この苦境をどうやってひっくり返してやろうか」

そうやってニヤリと笑える不敵さを、心の片隅に持ち続けてください。

失敗を恐れる必要はありません。私の采配も、すべてが成功したわけではありません。しかし、恐れて何もしないことこそが、最大の敗北です。

三原脩の人生は、常に「常識」との戦いでした。そして、その戦いは最高にスリリングで、楽しかった。

あなたも、あなただけの「マジック」を、この人生というフィールドで見せてください。

期待していますよ。

三原 脩